好奇心について
文/黒竜江省の大法弟子・玄童
(明慧日本)最近、明慧ネットのある交流文章の中で作者は、偽の経文と分かっても見てみたいと思う同修がいる、と書いています。偽の経文の危険性を十分に認知していない上、さらに好奇心を重く見ていないことも一つの原因です。ここで、好奇心について少し述べたいと思います。
一、修煉の物語から見る
中国で、道家の修煉の物語の中に、次のような話があります。ある道を得た真人は、神通を使って縁のある人を修煉へと連れて行きます。途中、通常は目を閉じさせ、目的地に着くまで目を開けてはならないと伝えます。しかし、好奇心を捨てられない人は言うことを聞かずに密かに目を開け、結局、この人は目的地に着く前に修煉する機会を失ってしうのです。本当に残念なことです。昔、好奇心は修煉の初歩において捨てなければならない執着心であったことがよく分かります。
二、法理から見る
ある生命が知っている知恵の範囲は、彼また彼女の心性、次元と境地によって決まります。何を知るべきか、何を知るべきでないかはすべて基準と範囲があります。ある生命がすべてのことを知ることは不可能です。これ自身も怖いことで、危険なことです。心性の角度からみると、好奇心は一種の人間の欲望であり、執着なので、捨てるべきではないでしょうか?
三、危害から見る
好奇心を捨てなければ、偽の経文を見て、難を招いてしまいかねません。そして、事実でない噂を信じて、自分と同修の修煉を妨害しかねません。さらに、偽の経文の来源などを根ほり葉ほり探して、資料を作成する同修に圧力をもたらしてしまいかねません。
要するに、上で述べた好奇心は、一種のおせっかいと邪念であり、修煉者にとって捨てるべきものです。
次元に限りがあり、間違っているところは慈悲なる指摘をお願いします。
2009年9月15日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/9/8/207988.html)
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