怒りっぽい性格を改める
文/大連の大法弟子 宏宏
(明慧日本)以前の私はものすごく短気で、すぐに怒り出す性格です。修煉後もあまり直りませんでした。同修が書いた体験談に、以前どれほど短気だったか、修煉を始めて、どのように改善したのか内容を見ると、本当に心から同修のために喜んで、そして自分もこの短気な性格を直さなければならないと思いました。
お母さんや夫、息子までも「貴方は本当に良い人ですが、ただすごく短気です。怒り出す時、全然修煉者らしくなく、それどころか、悪魔みたいに怖いです」と、いつも言っています。私も何度もこの性格を直そうと思いました。このたび決心して、息子に「お母さんが今度怒り出したら、修煉者であることをまた忘れたのかと、お母さんを注意してくださいね」と頼みました。息子は「大丈夫ですか」と聞き、私は「絶対大丈夫だ」と答えました。
しかし、物事が私の思う通りにならない時、また雷のように激怒してしまいました。法理も分かりますが、いざと怒り出したら抑えられなくなるし、気に触れた話や事に遭ったらかっとなります。時々、自分自身にも「なぜこんなにも怒るのだろうか、どこから来たこれだけたくさんの不平不満ですが、このまま修煉していくと、どのような成果を得ますか」と問いかけてみます。また、私みたいな弟子は本当に駄目なので、できるところまでで良い、と諦める時もあります。
先日、同修の体験談を読んだ時、師父の言葉が目に入りました。「しかし、皆さんは修煉の過程でますます善になり、何かを考える時はみな相手のために考えている、というところまで善になり、無私の生命になるように修煉しています。修煉は貴方自身のために修煉しているのであって、貴方が圓満成就まで修煉したら、同時に相手のために考え、相手のために代価を惜しまないほど偉大な生命にもなりました。」(『美国西部法会での説法』)
今回この部分の法を読んで、ものすごく震撼されました。以前、どうしてこの部分を見逃したのでしょうか。自分の心の底でしっかり掘り下げて探すと、私はずっと自己中心の世界に生きていることに気付きました。他人が褒められるのを聞いていられなくて、はっきりといえば「私」を一番重んじて、「名」を求める心がとても大きいのです。なぜそんなにも怒りますか、それは闘争心があるからではないのですか。人より強くなりたい、褒め言葉が聞きたい、周りの人に自分のことを「良い人」と言われたいです。しかし、周りの皆が自分を良い人と言って、苦難がなければ、私はどうやって修煉するのですか。
なぜ私にそんなに多い悩みと恨みがあるのですか。それは不平不満、愚痴の心から由来したものではないですか。他の人が自分より良い仕事をして、給料も良いことに嫉妬したりします。自分が毎日不平不満と恨みの中に生きて、またもや自分が善なる心を持っている、いつも人のことを考えている、自分が法輪功修煉者である、修煉が良くできている、などなどと思っています。
もし、本当に人のために生きて、人のために思うようになれると、私はまだ怒りますか。怒るということはやはり自己中心からきたものではありませんか。長年修煉してきても、私はずっと自分のことを中心に置いて、愚痴を言いながら生きてきたことに、やっと気付きました。恐ろしくて可哀想なことです。なぜそれを捨てられないのですか。まさかこの執着心を抱えて天国へ行くというのですか。
自分の執着心を見つけ出したら、心が明るくて楽になりました。私はもう、この執着をかかえたままに放さないなんかはしません。
私と同じように短気で、そしてまだ悟っていない学習者にも、これをもって戒めてほしいと思っています。
師父はこのようにおっしゃいました。「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させることで、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそ、この上なく重要だからです。
真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行うことこそ、最も良いことで、最も神聖なことなのです」(『精進要旨・再認識』)
師父のこの言葉を永遠に覚えておきましょう。
2009年9月21日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/9/8/207831.html)
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2009/9/20/110976.html)
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