表面的な形式にとらわれないで内を探そう
(明慧日本)今まで、大法弟子はみんな内を探すことは修練にとって重要で不可欠なことであると分かっていたが、身の周りにいる学習者で未だに内を探しても根本が見つからず、表面的なことに対する是非に流されている人がいます。例えば、ある老人の学習者は毎日朝晩に、師父の像に線香を立てており、何年も続けてきました。しかしある日、彼女の夫が突然反対し出し、受け入れがたい言葉を彼女に沢山言い放ちました。その学習者は激怒し、大法はどんなに素晴らしいか、師父はどんなに正しいのか、一家は法の中でどれほどの利益を受けているのか、今はどのように師父を敬うべきかなど山ほどの道理を並べて、夫とずっと論争したが、説得できませんでした。彼女は夫が再度師父に失礼なことを言うのを恐れ、師父の像に線香を立てる勇気を無くしたのです。
他の学習者とこの話をすると、その学習者は「内を探すべきですよ」と言い、彼女は理解できずに「なんで私が内を探すのよ? 師父に線香を立てるのは間違っていると言うの?」と聞きました。学習者は「師父に線香を立てることは間違いではありませんが、私たちが必要なのは表面的な形式だけでなく、本当に重要視すべきなのは内への向上と昇華(純化)です。心性の向上こそ第一ですよ。あなたは師父に何年も線香を立てていると言いましたが、それは一種の儀式になっていて厳格に自分の心性を要求していないのではありませんか? もし軽率に線香を立てたうえに敬う心がなければ、神々はこれを見てはいられないのです。師父は貴女のためにあんなにたくさんのことをしたのに、あなたは自分の師父に対してこんなに気の向くままに行動するなんて、と神々は考えていると思いませんか? だから彼らは常人の中の何らかの形式で、私たちが内を探せるように、自分の過失を見つけ、正せるように悟りを開かせているのです。これこそがその事が発生した本当の目的なのですよ!」と言いました。すると、彼女ははっと悟り、全てが元通りになりました。
確かに、内を探すことは法の中の自動的な構造であり、師父はとっくに全ての大法弟子に与えてくれましたが、どう用いるかは人それぞれ異なります。表面的なことに惑わされず、確かに自身の心を探し、師父が私たちに導いた道を最もよいものだと信じ、いかなる事をも偶然であると考えず、出会ったいかなる事も心性の向上の良いチャンスとし、真に内の人心と執着を探す。これこそ師父が望んでいるものなのです!
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2009年9月26日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/1/205426.html)
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