交通事故がもたらした論争についての認識
(明慧日本)先日、私の地区で大法弟子4人が交通事故を起こし、3人が怪我をし、1人が亡くなり、現地の同修の間で波紋を呼びました。なぜこのような事故が起きたのかを理解できません。当然ながら、当事者である大法弟子に修煉すべきところがあり、現地のすべての大法弟子に修煉すべきものも存在しています。要するに、全員が内に向けて探すべきです。ここで問題にしたいのはこのことではなく、事故の発生後にもたらした論争について話したいと思います。
一部の大法弟子は、同修の事故死は邪悪の迫害によるもので、正念を発することによって邪悪を解体し、同修の主元神に呼びかけて、同修を取り戻すことが出来るという見方をしています。以前このような事例がありました。ある同修が亡くなり、家族が遺体を火葬場に運ぶ途中で、同修たちが遺体を持ち帰って、遺体を囲んで名前を呼びながら正念を発した後、亡くなった同修がまた生き返りました。こういうやり方には賛成、反対それぞれでした。当時は時間的に余裕がなく、事故死をした同修の遺体は冷凍され、2日後に火葬する予定でした。
私は違った見方を持つ同修達がお互いに自分の意見を堅持し、相手を強要した結果、同修の理解を得ず、反対するようになったのだと思います。他人が悟ったことに賛同できないというのは、間違いだということではなく、それぞれ悟った部分が違うのは当たり前のことだと思います。私達が修煉するのは自身の円満成就のためではなく、衆生を済度する使命を担っているからです。法を実証し、衆生を済度していく中で、あなたには考えが一つあり、彼にも考えが一つあり、二つの案のどれが現在の法の実証、衆生の済度に一番適切なのか。たとえその考えが自分の考えと合わなくても、法に合うのであれば、私達は無条件に助け合って進むべきです。私達が言い争って譲らないとき、私達が自分の悟りが正しいと思うとき、そのときもしかして、私達は法をもって執着心を覆い隠したのかもしれません。それによって、全体の正念を相殺する作用を働いていた可能性があります。もし、穏やかな気持ちで同修と法のもとで交流すれば、別の修煉状態が現れたに違いありません。
助けに参加した同修が発正念の後で短い交流をし、ある同修が、もし同修を救うことが出来たら、影響力がどれほど大きいでしょう、そして、みんなが大法を信じ、救うることができると言いました。このように思う同修達は師父と法を固く信じる以外に、結果を求める心を持ったのではないでしょうか? やっている最中、歓喜心がすでに言葉に出てきて、このような執着心を持ちながらすることに奇跡が現れてくるでしょうか? 法を実証する過程は実は自身を修める過程です。求めず、結果はどうであれ師父が決められます。私達が自分の意思で決められることではありません。
また、ある同修達は参加するには参加したが、心中に様々な考えを持っていました。これらを書き出すのは、批判や非難をしようとするのではなく、この事件がすでに過ぎ去ったことで、救助に係わった人やすべての人が内に向けて探し、心性を向上させることこそ重要なことです。今頃になって言い出すのは、この論争によって、2年前にも現地で同じようなことが起きたことを思い出しました。当時、私も関わった1人で、起きたことを法理においてよく理解できず、違った考えをもつ同修との間に隔たりができて、どうしてなのか自分でも悟れず、そのまま棚上げにしました。私は起きたことを評論したいのではなく、事件後、同修との間に隔たりができ、今になっても、当時のことを言い出すと、当時のままの考えを堅持し続け、少しも変わっていないのをはっきりと感じていました。
私はとても心を痛めました。師父が『転法輪』の中で「釈迦牟尼は菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)の下で、功を開き悟りを開いた後、直ちに如来の次元に達したわけではありません。彼は四十九年間にわたる説法の間も、絶えず自分を高めていました。次元を一つ上がる度に振り返って見ると、説いたばかりの法はみな違っていました。さらに上がれば、先に説いた法もまた違ってきました。四十九年の間に、彼はこのように絶えず昇華していきながら、次元が上がる度(たび)に、自分の以前に説いた法は認識が低かったことに気づいたのでした」とおっしゃっています。なぜ私達は元の認識から抜け出せないのでしょうか?
現在また同様のことが起きて、参加者や参加しなかった者が現れた修煉状態は前回と全く同じ形から出たものでした。自己を堅持し、自分が悟ったものだけが正しいのだと思い込んでいます。それ以降、大法の活動の中で、助け合わなくなり、甚だしきに至っては勝手気ままに言う人が現れてきます。個人の修煉の中で、あるいは法を実証している中で、私達の考えが一致しないことは怖いことではなく、自己を堅持しながら、口では絶えず法のためだということが一番怖いのです。本当に法のためなのか、それとも、自分の放棄できない執着心によるものなのかを考えるべきです。こんなことで、大法弟子の間に隔たりが生じてはいけません! これは邪悪にとって一番喜ぶことなのです。なぜなら、邪悪は修煉者のまだ取り除かれていない執着心を利用し、内輪で隔たりを作り、全体の力を崩すのです。
『師恩を思い起こす』の中で、師父が法を世に伝える初期の頃にこんなことがありました。ハルピンでの講習会で思いがけないことが起きました。ある日、講義の前に、2人が1体の死体を担いできて、生き返らせてほしいと、立ち去りませんでした。その日の講義は仕方なく、延長されました。その場にいたすべての人が事の経過を見ました。受講開始後、師父は「良いことを私達は言いますが、悪いことも私達はここでお話します。先ほどある老人が亡くなりました。彼は元々重病に罹って、錦州から来て、息子さんとお婿さんはお父さんを病院へ連れて行きたかったのですが、しかし、本人が嫌がり、どうしてもここへ来たいと、来る途中で亡くなり、お子さんたちが私に死体を生き返らせて欲しいというのです。もし一息あれば、私は助けてあげられましたが、あまりにも死んでからの時間が長く、生き返らせたら、常人社会の状態を壊してしまうことになるのではないでしょうか? 息子さんとお婿さんは法輪功の修煉者で、法輪バッジを服から取って地面に投げ捨て『なにが気功師だというのか? 命を救わないというのに』と言い、私の弟子がこのようなことをして心が痛みました」と言われました。
修煉者として、無条件に内に向けて探すのは、私達が修煉して他人に見せるためではないし、さらに他人がどのように修煉するかを見るためでもありません。円満成就に向かって、もし私達は法をもって師に対して万事をやり遂げることが出来たら、正念を堅持し、すべての執着を取り除き、自己を放棄し、全体を補うことが出来たら、邪悪が完全に解体することはそう遠くありません。
2009年9月27日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/16/208369.html)
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