杜菁華さんは不法に連行され、夫は恐慌の中で死亡
(明慧日本)以前の私は病気だらけの身体でした。高血圧や、心臓病、気管支炎、胃下垂、脱毛症などを患っておりとても病弱でした。授業中に教室の中で倒れたこともあります。50歳の私は病気のため、退職するしかありませんでした。1995年3月30日、私は法輪大法とめぐり会えて、人生の道が変わりました。主人と私は同時に大法の修煉を始め、身体が軽快になり、幸福な喜びの中で師父の恩恵に感謝しています。
1999年7月以来、中国共産党の江沢民を始めとするグループが、法輪大法を誹謗中傷する下劣な迫害手段として、ラジオや、テレビ、新聞などの宣伝機関を利用して大法を攻撃しました。さらに世間の人々を騙し、全世界の人々を騙し続けてきました。
2000年12月26日正午、武漢関山街の610弁公室のリーダー孫と、関山派出所の李、もう一人の女性警官・湯と言う人達が私の家にやってきました。当時、家には客がいて私は料理の支度をしている最中だったため、警官らは少し待っていました。食事の後、警官は私に「相談したいことがある」と言って、私を民生委員会の610弁公室まで来るようにと言い、連れて行こうとして、アパートの下まで降りたとたん車の中に私を押し込みました。「どこに連れて行くつもりですか? 私は犯人ではありません」と言うと「着いたら分かる」と答え、石嘴洗脳班まで連行され、2カ月間拘禁されました。
石嘴洗脳班は湖北省武漢市洪山区の銭有見に管理され、それから張杏芝に管轄されることになりました。張(女性)はとても悪辣な人物で、私が病床に臥していた時、隣の人に世話をしてもらうだけでも許さなかったのです。私が監禁されたことで、主人は精神的に大きな打撃を受けて、毎日涙を流し、最後には身体も壊してしまいました。私は2001年3月初めに釈放される時、洗脳班に1200元を強請り取られました。
私は家に帰ってから、石嘴洗脳班の責任者宛てに法輪功の真相を伝える手紙を書きました。張杏芝は極めて不満で、この手紙をコピーして私が所属している洪山区関山街の民生委員、および勤務先の学校に配ったのです。それにより、民生委員会の書記・江暁珍と、学校の幹部らにいつも嫌がらせをされていました。
おびえていた主人は、私が再度連行されるのを恐れて私と一緒に、実家の弟の家に避難しました。しかし、悪人らはそれでもやめませんでした。関山街の610弁公室の孫は、私の勤務先にまで電話をして、私の個人情報を調べて、28日に実家までやってきました。そして急に外に呼びだされ、大勢の人達にとり囲まれて車に押し込まれました。「なぜ私を連行するの? 親族を訪問しているだけなのに」と聞くと、彼らは「迎えにきた」と遠まわしな言い方をしました。この時、私は周りをよく確認して、610弁公室の孫、洪山区警察署の王、関山派出所の所長と警官、民生委員の楊秀雲と、王という人物の名前を覚えました。彼らは私を二支溝女性監禁所に2週間拘留しました。
主人はこの一連の打撃を受けて、身体が弱くなり半身不随になりました。日常生活も一人ではできず、身動きも取れず、話もできなくなり、疲れがひどくて食事も摂れない状態になりました。しかしこの間でも、610弁公室の孫は絶えず電話をかけてきて私の生活をかく乱し、私の勤務先や、娘の勤務先、転向した人に対して、張杏芝らは次から次へと嫌がらせをしました。
こうして、主人は2004年9月30日に亡くなりました。
2008年の北京オリンピック開催直前、610弁公室、関山派出所、民生委員会などは、再度私を連行して迫害し、家宅も捜査しました。
(注:法輪功修煉者を迫害する主な責任者らの情報は、中国語ページを参照)
2009年9月28日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/9/208001.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
|
|