人に善く接して、真の修煉の素晴しさを知る 文/中国大陸の大法弟子
(明慧日本)私も含め、多くの人の目にうつる姑はけちでわがままな人です。私の記憶には姑が孫(私の息子)のためにお金を使ったことはまったくありません。ある時期ご飯を食べる時も非常にうるさくて、食事ごとに肉まんを準備しなければなりませんでした。当時、私は自分を修めず姑を恨み、昔、姑は夫をそそのかして、私と何回も喧嘩をさせたことを思い出し、まったく姑を見たくなく、顔を合わせれば気が塞ぎました。姑は夫の妹と性格が合わず、娘が自分に善くしてくれないからと妹の家には行きませんでした。ずっと私達と暮らし、自分のお金は使わず、私達のお金ばかり使いました。私は姑のために使うお金はもったいないと思い、心を静かにして法を学ぶことができませんでした。ずっと姑の間違いばかりを考え、姑を恨み、夫の兄はなぜ姑の世話をしないのかと夫の兄を恨みました。私の心は完全に法から離れていました。
ある日突然、夫の妹は幸せだなぁと思い、羨ましく思いました。彼女の夫は彼女のため自分の母親の世話をしませんでした。しかし、姑は十数年ずっと私と一緒に暮らしています。姑を追い出したい気持ちは一度ならずありましたが、夫と喧嘩するのが嫌で止めました。夫は非常に親孝行でした。しかし、私の目にはお人よしの親孝行に見えました。姑が何を言ってもすべて聞き入れ、その通りにしてあげ、常に私が姑に良く仕えない、親しく話をしないと言っていました。
私は幸せとは何だろうかと自分に聞きました。夫が私を大切にし、姑と生活しないのが幸せなのでしょうか? そうではなく、大法を修めることが自分にとって一番幸せなことでした。そうであれば、何故良く修めないのでしょうか?神なら私のようにするでしょうか? 姑が私と暮らしているのは心性を向上させる良い機会ではないでしょうか。しかし、私は自分を修めずかえって他人を恨んでいました。どうして向上できるでしょうか?
この時「真・善・忍は善い人か悪い人かを判断する唯一の基準」(『転法輪』)の言葉が思い浮かびました。私は「真・善・忍」に基づいて自分を律するべきで、ことはこんなに簡単でした。私が他人に善く接し、年配の人に孝行するのも当然なことです。修煉者は自然に任せることを重んじるべきです。姑と暮らしているのなら仲良く付き合うべきで、今考えてみると自分の考えが間違っていました。
この時、私は重荷を下ろしたようにほっとし、気持ちがだいぶ楽になり、姑に対する積年の恨みもなくなりました。夫の兄も恨みませんでした。あの時、私の心には恨みはなく、慈悲の心が満ちていました。自身を放下するとこんなにも楽になることに初めて気付きました。その夜、私は初めて機嫌よく姑と一緒にご飯を食べ、初めて姑の間違いを考えませんでした。私は衆生を救うためにきたので、衆生と論争してはなりません。数日過ぎて、姑は自分のお金を出して私にくれました。私は「このお金は自分のため使ってください」と言いました。私が心を放下してから、姑は突然気前がよくなり、夫の兄も姑を一定の間世話をするようになりました。以前は他人の悪いところだけ見て、自分が宇宙の理と離れていたことが分かりました。今は自分を正し、環境も変わりました。本当に「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明になる」(『転法輪』)です。
2009年10月1日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/9/29/209201.html)
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