■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/10/02/mh025941.html 



大法は知恵を開く

文/白雲の大法弟子

(明慧日本)私は60歳近い農村の婦人です。教育を受けていませんが、地区の資料点を立ち上げた体験を皆さんと交流したいと思います。間違ったところがありましたらご指摘ください。

 2000年から2003年の間、私たちの地区には大法の真相資料が少なく、資金も不足していました。明慧週刊の中で、資料を作成する同修は節約して1本のトウモロコシさえ買わず、何時も空腹状態で我慢し、疲れて苦しんでいても貯めたお金を資料作りに回していることを紹介していました。私はこれを読んでいつも涙を流していました。当時、私の家庭は住宅を建てていたので、お金にも余裕がなかったのです。しかし私は、1万元(農民にとっては大金)を資料点に寄付し、資料点の同修のために、自分も何か大法のことを分担出来ればよいと思いました。

 学法するにつれて、大法弟子の責任の重さはとても大きいと深く認識し、自分でも資料点を作りたいと思う願望が次第に強くなりました。複写機や消耗品などを購入したかったのですが、私はこの年齢の農村婦人で、小学2年までしか勉強していないし、どのようにして複写機を購入すれば良いのかさえさっぱりわかりませんでした。その上、恐怖心も湧いてきて、この観念は強く現れました。仕方がないので私は手書きで作成しましたが、やはり遅いし字も汚く思うように行きませんでした。

  しかし師父は、私が人を救いたいと思う心を見られていて、2004年に同修が複写機と消耗品を買ってくれて、私の両親の家に資料点を立ち上げました。両親も修煉者で、資料点を立ち上げることを支持してくれました。この資料点は、現地の60〜70人の同修達に経文と、明慧週刊、真相資料等を供給しました。『九評』などを作成して、多い時には400部あまり、少ない時でも200分あまりを、地区の多くの衆生に配布して真相を伝えました。しかし、資料点を維持していく過程で、物事をすることに没頭して学法を忘れたり、自分の思いと考えを法に従って律しなかったり、恐怖心を抱いたりしたため、邪悪に隙に乗じられることもしばしばありました。

 私は2002年に上京して陳情したため、連行されて22日間拘留されましたが、師父のご加護の下、留置場を脱出できたことで、地区の人々によく知られて居ます。数回も邪悪に迫害されましたが、すべて師父のご加護の下で逃れる事が出来ました。私はある日の夜、家に資料を取りに行ったとき、家の後ろに回った途端、突然、警察車両が我が家を照らしました。私はすぐに逃げました。警官も車を隠して4、5人で我が家を囲みましたが、私は樹に上っていました。すると30分後、警官は何事もないと思い去ったので、私は家に入って資料を取りました。もう一つは、私は食事の用意をしてから『転法輪』を出して読み始めました。すると目が覚めた母は裏門から外に出て行きました。窓際にいた父は警官の姿が見えたので、父は母に「警官が来たぞ」と伝え、それを聞いた母は、引き返してきて私に知らせました。私は本を持って隠れ、家中の藁をさらさらと鳴らしました。警官らはその音を聞いて「この部屋はなんの部屋ですか?」と質問したので、「台所だよ、なんで・・」と母は答えました。警官らは逐一部屋中を調べましたが、何もないので、しおしおと帰って行きました。

 毎回危険に晒されましたが、私は、師父がいつも大法弟子を加護されていると感じました。私はもっと勇猛精進して、命をすててでも師に従って法を正さなければならないと思う一念しかありませんでした。私は同修に教わりながらパソコンを勉強し始めました。大法弟子として乗り越えられないことはないと思いました。不思議なことに、小学2年生レベルの私でも、早くもインターネットにアクセスし、ダウンロードする方法や、三退声明をアップロードすることができるようになりました。さらに、パソコンから直接真相資料をプリントする事ができ、DVDの書き込みなどもできるようになって、現地の人々に綺麗な真相資料を届けることができました。真相資料によって、人々は大法を敬服し、さらに救われました。

 資料を作成するのにあたって、いろいろ不足もありますが、大法と師父を信じて、大法の教えに従って自分を律しさえすれば、私はきっと素晴らしい資料が作成できると思います。大法は超常的であり、大法が一番正しいからです。

  2009年10月2日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/9/27/209102.html

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