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「円融」について厳粛に対処しよう


文/中国の法輪功修煉者

(明慧日本)以前『明慧週刊』でも交流したことがありますが、「家族に円融する」という言葉は修煉者たちの文章の中でよく使われており、珍しくありません。このような考え方により、話しているときも、たくさんの修煉者たちの口からこの言葉が常に出ていると気づきました。「家族に円融する」や、「常人社会に円融する」、「国際関係に円融する」、「夫婦関係に円融する」など。実際このような言い方はとてもいい加減であり、間違っています。

  私が思うに、「円融」は修煉の中のひとつの法理で、だんだんと昇華していく途中のそれぞれの層での法の表れで、とてつもなく神聖であり、決して濫用してはいけないものです。そうでなければ、自分の道を間違えてしまいます。修煉者が法の中に溶け込むと、法はだんだんと私たちの不正の要素を洗い流し、知恵を与え、私たちをさらに高い層に昇華させると同時に、法のすばらしさが現れてきます。もし、自分が家族、婚姻生活などの中に溶け込めば、満足感を常人の中で終わらせることや、常人社会を維持するなどのことを目的にすれば、修煉の内包を曲げてしまいます。なぜなら、常人のすべては「私欲」を基点としたものであり、上昇することを妨げるからです。

  では、私たちが修煉の中で、常人社会の中でよい態度をとり、最大限に常人社会にあわせて修煉し、修煉する環境をつくり、いつも他の人を最優先に考え、他人を寛容し、善なる心で他人と接することは、私たちが自分を法の中に溶け込み、心の中に法があり、もしくは、法と同化して生み出された慈悲、もしくは、法の指導の下でできたことです。これは法に円融したときや、法を実証するための一つ表現です。師父はこう言われました。「皆さんが良い人間になろうとする時、すでに法に圓融しています」(『シンガポールでの法会における講法』) 今の人類社会はすでに変異し、家族や社会、人間関係、婚姻などもすでに変異し、私たちはただこの環境を使って修煉するのであり、この環境を改善することを目的とするのではありません。さもなければ、容易に道をはずしてしまいます。

  ある若い修煉者が毎日自分の夫を満足させるような正常ではない状態を「家族に円融する」と言っていました。ある中年の修煉者は金を稼いで家族を養い、同時にすべての家事をこなし、また孫の面倒もみなければなりません、彼女の息子は毎日ウェブでゲームをやり、息子の妻はマージャンをやり、自分の夫はあちこちで遊びまわり、また息子の妻はいつも彼女に孫の世話が足りないと文句を言っています。彼女はこのようなことを「家族に円融する」と言い、「業」を消して、心性を上昇させていると言い、真相を伝え、人を助けることをしようとしません。ある修煉者は夫に虐待されたり、ある人は浮気されたりしています。彼女たちは苦難の中で自分を見極め、邪魔を消し、上昇して外部の環境に変化をもたらすようなことをしないで、自分を修煉せずに「家族に迎合」しているだけです。

  「多くの学習者は常人に圓容するという次元の法に関して意見が違っています」という弟子の質問に師父はこう答えられました。「常人に圓容するという次元の法? この言い方は間違っています。もし正しく行うことができなければ、それは修煉の問題であり、このような圓容の問題はありません」(『2004年米国西部法会での説法』)私たちの修煉は常人に円融するような概念などありません。そのため「家族に円融する」という言い方は正しくはなく、修煉者の間では使ってはいけません。

  2009年10月4日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/9/208021.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2009/9/22/111021.html

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