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全体に溶け合うことと個人の能力を発揮することについて


文/瀋陽の大法弟子

(明慧日本)正法の道で私達は今日まで歩んできて、大法を修煉する弟子一人ひとりが皆どのように全体を円融するかの問題について、それぞれ異なる次元の認識があり、一人ひとりが自分の認識について正法の中で個人の能力を発揮し、師に遵って法を正し、衆生を済度しています。しかし、一部の修煉者は具体的な事を行う時、次第に、知らず知らず個人の能力を重んじる問題が生じ、甚だしくは、一部の修煉者は同修の中で自分の能力を際立たせるため大法の仕事をしていて、その結果、自分の個人修煉と地元で大法を実証すること、衆生を済度することに多くの妨害と損失をもたらしました。これは主に、事を行う時の基点と出発点が法から離れたためもたらされた結果です。

 師父は私達におっしゃいました。私達は集団の社会関係の中から私心が生じてこの人類の次元まで落ちてきました。全体を円融する過程の中で個人の能力を重んじる私心を捨て去り、真に正法と衆生を救う角度に立って自分を修め、全体に溶け合うことができれば、良く行えないことはありません。個人が正法の中で発揮する能力を重んじ、仕事をするときに自我を強調し、全体と協力しないのは私心の表れではありませんか。

 師父は私達が大法の一つの粒子になり、私達が無私無我の正覚にまで修めだすことを望んでおられます。私達はすぐにそこまで到達できませんが、私達はこの方面で努力し、精進すべきです。周りで生じた同修間の隔たりは、各々が自分の能力を重んじる心が邪悪に乗じられ、互いによく協力し合わないのが原因だと分かりました。例を一つ挙げると、もし手を挙げて水を飲むとします。この動作を完成させる過程で、手の上の粒子は全部この動作に参加し、誰もどの粒子がこの動作の中で最も重要な作用を起こしたのかは強調しません。これはあらゆる粒子が共に参加した結果だからです。

 また、具体的な仕事を按配した同修が自分より良く修めていない、あるいはどの方面で足りないと思い込んだときは、同修がやっている大法を実証することに協調しません。このような考えは、私達は修めて捨て去るべき心です。『封神演義』の中で、姜子牙より次元が高く、功能が強い人はたくさんいましたが、神は全て姜子牙に按配しました。彼らは神を封じることは姜子牙個人のことではないと分かり、当時の天象に合わせるためです。他人ばかりを見るのではなく、自分自身がどの方面で足りず、どの方面にまだ修めていない人心があるかを見るべきです。

 師父は『転法輪』の中でおっしゃいました。「功能といい、功を開くことといい、みなあなたが大法の中で修煉して得たものにほかなりません。もし大法を二の次にして、自分の神通力を最重要視し、あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたら、その時点で、あなたはすでに堕ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます。そうなった時は、修煉が無駄になるので、本当に厄介なことになります。下手をすると堕ちていき、修煉を台なしにしてしまいます」。

 正法修煉の中で個人の能力を重んじ、全体に協力しない同修は目覚めなければなりません。私達はこの方面の人心で個人の修煉、大法を実証することと衆生を救うことに、あってはならない損失を引き起こしてはなりません。個人の悟りで次元が限られているので、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 2009年10月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/6/209751.html

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