中共は明慧ネットを封鎖できない
(観念を取り除けばすべての虚像を突き破ることができる)
文/中国河北省の大法弟子
(明慧日本)最近、どのように封鎖されたネットを突破したかについての文章が多くなっており、同修はそれぞれの角度からの体験談を述べました。私がこの数年来に感じたことは「私と明慧ネットとの接続は誰にも阻止できない」、この一念にありました。
一、自分と明慧ネットとの接続は誰にも阻止できない
私は2005年12月、技術担当の同修の協力でパソコンと印刷機を購入しました。そして、同修はパソコンの操作まで教えてくれました。それからこの数年来、師父に遵って法を正す過程において、明慧ネットは私を助けてくれました。ですから、毎日明慧ネットを見るのが私の日課となりました。私はもうすぐ60歳になります。以前はパソコンについて全然分かりませんでした。まさに師父がおっしゃったように「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』)なのです。師父のご加護があれば、大法弟子にできないことはなく、どんな奇跡も起こすことができるのです。数年来、私から数十篇、依頼された原稿を数十篇、編集した真相チラシ、小冊子、シール用真相資料などを明慧ネットに送りました。そのほか「三退」の名簿を送ったり、DVDを書き込んだり、真相資料を印刷したり、『共産党に対する九つの論評』や『転法輪』を製本したりしていました。
私は明慧ネットに対して特別な感情を持っています。それは世間における自分の家のようであり、自分と同修が協力し合って「三つのこと」をよりよく行える場所でもあります。私は明慧ネットを見ることは、毎日三食の食事をとるのと同じようで、一日たりとも欠かすことはできません。ですから外出からどんな遅く帰宅しても必ず明慧ネット見ることにしています。私はこの4年間、一度も常人のネットを閲覧したことはなかったのです。家族に対しても常人のネットを閲覧しないように厳しく要求しました。同修は私に「あなたのパソコンは最も純粋ですね」と言ってくれました。
二、明慧ネットを封鎖されたのは、不純な念による虚像
あれは確か、2006年6月下旬のある日の午後のことでした。ある同修が我が家に来てくれました。私は「この数日は明慧ネットを閲覧できますか」と聞かれました。その同修は「この数日間は明慧ネットが封鎖され、閲覧できない」というのです。私は同修に「いつから封鎖されたの?」と聞きましたが、その日から私も明慧ネットの閲覧ができなくなったのです。私はこのことを通して、もし自分の考えに「封鎖」という良くない物質が存在する場がなければ、作用しなくなるということを認識しました。同修がこの「封鎖」ということを話したとき、私は否定しなかったため、それで自分の空間場が不純となり、この良くない物質に入る余地を与えてしまい、そして妨害されたのです。私は師父に遵って法を正し、衆生を救い済度しています。つまり、宇宙の中で最も純正なことを行っていますので、どの生命も私と明慧ネットとの接続を阻むことができず、「我が家に帰る」ということを阻止することはできないのです。このような正念を持つこといにより、この数年間は中共のいわゆる「ネット封鎖」は私には作用しなくなりました。これがもしかすると、私たちがいつもよく口にしている「一念」が大切である、ということかもしれません。
最近のネット封鎖について私の考えでは、一羽の伝書鳩が飛べなくなると、別の伝書鳩が代わるのです。ですからこの数年来は、明慧ネットとの接続は一度も切らしたことがなく、自分がなすべきことを妨害されたことがなかったのです。しかし、私の周りの同修はいつも中共の封鎖に対して愚痴をこぼし、数日間はネットの閲覧ができなくなっていました。
三、いつでも積極的に自分の一念を修めること
一念について、師父は次のように教えてくださいました。「行うべきことであれば、それを行い、やりたいことであれば、いつも通りにそれをすればよいのです。なぜならば、あなたの一念と一挙一動は大きなことに影響しているからです。どんなに大きな出来事が起きても、何もなかったかのようにし、いつもと変わらず大法弟子が行うべきことを行ってください。これは皆さん今日歩む道であり、皆さんが残した威徳なのです。大法弟子が歩む道は、この修煉形式によって決められており、このように修煉しなければなりません。常人の形式の如何なる変化によっても、決して変わってはいけません。」(『2004年ワシントンDC法会で説法』)「これらの心は多くの場合、あなたの修煉の中、生活の中、異なる環境での言動、ひいては普段の一つの思い、一つの念にも反映されてきています。常人の心に動かされたら、その一瞬、またはそのしばらくの間、そのことにおいて、あなたの行動は常人の行動になります。いつも大法弟子と修煉者としての要求にしたがって行うことができなければ、それは他でもなく、常人になったのではありませんか?」(『2004年シカゴ法会での説法』)
明慧ネットの封鎖ということを通して、私の感想はどうであれ、大法弟子はすべきことを行い、何をしていても、発する念は常に法に適っていなければなりません。もちろん私は修煉の道において、良くできていない面も多々ありますが、この文章を書いたことで、私は一念の大切さについて新しい理解を得ることができました。
このように行なえば、師父がおっしゃった「旧勢力の按配を否定する」という法理に符合するのです。旧勢力に操られている中共のネット封鎖は、常人に対して効果があるのですが、大法に同化し、神の道を歩む大法弟子には効き目がないのです。昨日、中共がネットを封鎖したときは、同修たちは内に向けて探し、正念を発しました。明日、中共がまたネットを封鎖した場合は、同修たちはまた内に向けて探し、正念を発します。これでは「水が流れれば土で塞き止め、一兵を送り込まれば大将で迎え撃つ」と同じことであり、受動的に行動しているのです。大切なのは師父が教えてくださったように法をよく勉強すること、法理をはっきりと理解し、師父の教えの通りに行えば、誰も自分を動じさせることができず、妨害することができないのです。「一つの心が動じなければ、あらゆる動きを制することができるのです」(『最後の執着を取り除こう』)受動的な局面を打開できてこそ、「三つのこと」を落ち着いて行えるのです。
個人の悟りですので、次元が限られており、不適切なところがあれば、どうぞご指摘してください。
2009年10月12日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/10/2/209444.html)
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