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法を実証する中で執着心を無くす(一)


文/米国大法弟子

(明慧日本)私は法輪功の修煉を始めてから、すでに13年経ちました。何度も法会に参加したことがあり、多くの体得を分かち合いました。しかし、自分で体得を書くのは、とても難しいと思いました。毎回自分は修煉不足なので、やはり同修の話を聞こうと思ってしまいます。

 書くことがないということは間違っています。自分の生命の本質が大法の中で変えられて、何も書くことがないと言えるでしょうか? 修煉の中で心が痛いほどの執着を無くす過程、たくさんの心が動じたことなど、すべて書くことができます。大法修煉により、多くの大法弟子が邪悪の迫害を前にして、修煉を堅持し、衆生を済度することを続け、天も感心するほどの法を実証するストーリを残し、大法修煉により、無数の大法弟子が私心や私欲を無くして、他人を優先する正法正覚の威徳を樹立しました。この中に、洪大な仏恩があります。なぜ自分の筆でその一部でも記録しないのでしょうか? 次に、私の体得を述べます。

  指摘されたくない執着を無くす

 ある同修が遠まわしに私の修煉の不足を指摘してくれ、私はとても気になっていました。一つは慈悲心が足りず話があまりに率直すぎるということでした。もう一つは傲慢で、いつも古い大法弟子だと自慢して、なにか功績でもあるかのようだと言うのです。なぜこのような見方があるのでしょうか? なぜ自分が人に言われたくないのでしょうか?

 私はずっと自分の率直さを誇りに思っています。人がよくなったら、すぐに褒めてあげるし、誰かに不足があるとすぐに相手の感情を考えずに指摘します。人の観念が自分と異なっていれば、間違っていると決め付け、あまり良くありませんでした。どうして自分がずっとこうなのかと自分に問いかけました。人の感情を考慮せず、人の立場に立たず、なんでも自分の主張を持ちだしているのは、これは私心ではありませんか?

 「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私(し)のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをする時には、まずほかの人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他の人を先に、自分を後にするという正(しょう)覚(がく)にまで修め遂げなければならないのです。 それゆえに皆さんは、今後、何かを行ない、何かを口にする時にも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法(ダーファ)が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです! 」(『精進要旨』)

 「長い間養われた習慣ですが、この習慣は異なる執着から由来するものです」(『マンハッタン説法』) 私がよく人の執着を指摘するのは実際に自分がよく分かっていると思い、それは顕示する心です。師父が『転法輪』の中で言われたように「こんなにたくさん大法弟子がいる中でも、自分がいちばん分かっており、誰よりも自分がいちばん物知りであるかのような顔をしています。本人はそれはもうごく当たり前のことで、無意識にやっているかも知れません。彼の潜在意識に、ほかならぬ顕示心理というのがあるのです。でなければ、噂を流して何になるでしょうか?」

 自分の顕示心が分かって、最初に思いついたのは口を修めることです。「われわれが口を開いてものを言う時には、煉功者の心性に基づいて言うので、人と人との間の和を損なうようなことを言わないし、良くないことを言わないのです。修煉者として法の基準に基づいて、自分自身がそれを言うべきかどうかを判断するのです。言うべきことは、法に照らして煉功者の心性基準に合致すれば問題はありません。しかもわれわれはまだ法を説き、法を宣伝しなければならないので、ものを言わないわけにはいかないのです」(『転法輪』) 問題のポイントは内に向けて修め、執着心をなくすことで、話の内容は関係ありません。それからの修煉で、私は常に自分に注意しています。たまにしっかりできなかったら、すぐに自分の心がドキドキして、心臓が飛び出しそうに感じられますが、時にはすぐに押さえることができ、このよくない執着を弱めることができます。

 傲慢な心については、よく卑屈に感じています。しかし、なぜ傲慢な行動になるのでしょうか? 大法の修煉をして、今日まで辿りつき、精進したり、怠惰になったりして自分でも不満に思っていますが、やはり精進しなければならないとわかっています。周りの同修は精進して、三つのことにベストを尽くしているのを見て、自分も焦って、遅れたくありません。この心理が働いて、同修と話す時に、よいことばかりを話し、自分が劣っていることを言われたくない心があります。

 傲慢な心より、嫉妬心の方がふさわしいかもしれません。例えば、神韻を宣伝した時に、いろいろな原因で私は決まった場所にいて販売することができず、いつも雑用や裏方の仕事ばかりしていました。同修が、今日は何枚売れたよ、と話すのを聞くたびに、私は嬉しい反面うらやましい気持ちもあり、直接チケットを売らなければ衆生を救うことができないかのように思ってしまいました。自分が同じようにすれば販売実績も悪くないかもしれないと想像します。だから神韻の後に、よく自分の仕事がいかに複雑で、難しかったかを話しました。法理により、この心がよくないと知っておりますが、その心がやはりすこし残っています。純粋な心にはまだまだ遠いです。しっかり修めなければなりません。

  運転の恐怖心を無くす

 以前の私はただ家事をするだけで、出かける時に運転はしませんでした。道を覚えなくてもいいし、私が地図を見てあげるよりも運転手自身が見る方が早いのです。もし私1人で運転したら、絶対誰かと一緒に通ったことのある道を通り、しかも自分が知らない所には絶対に行きませんでした。

 インディアナ州に引っ越した最初の冬に、積雪の為私は車に乗って団地内のポストにぶつけました。その時の驚きと絶望は瞬時に全身へ広がり、骨まで浸み込みました。それからは雪の日は絶対に出かけません。

 ある日、私は1人でシカゴまで運転して神韻活動の手伝いに行きました。ある同修に「印刷会社まで行って資料を取ってきてくれませんか」と言われ、「誰と一緒に行くの?」と聞くと、「貴方1人です」と答えました。私は行きたくないわけではないのですが、怖くて行けないのです。一つは私の運転はまだまだ未熟で、シカゴまでくるだけでもやっと来たのです。もう一つは天気が悪くて雪が降り、路面はあまり積もっていませんが、私にとっては高山の雪野原に見えました。「他の事をやらせて貰ってもいいですか」とお願いすると、「いいよ、私が行きます。貴方は電話を受けてくれればいいですよ」と言って、同修が出かけました。同修の後姿を見てとても複雑な思いでした。オフィスの中にいて私はどうも落ち着かず、いろいろ考えました。私は手伝いに来たのになぜ仕事を選ぶのか? 頭の中は恐れでいっぱいになり、これでは何ができるでしょうか? 最後に私は絶対運転の恐怖心を無くそうと決意しました。

 もうひとつのことですが、ワシントンDCでの大型の活動に参加したとき夕方6時にインディアナを出発しましたが、途中に大雪に遭ってとても怖かったです。しかし、他の同修2人は平気で進んでいきました。窓の外に舞っている雪を見て、私は怖くてドキドキしました。長い雪の夜に、恐怖心を募らせ足掻いているようでした。意識の中で師父と大法にしか頼れないと分かって、繰り返し『洪吟二』の「正念正行」を暗唱しました、「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」 少しずつ長い雪の夜を過ぎて、ワシントンDCに着いたとき、すでに翌日の正午でした。明るい日差しが降り注いで、私の窮屈した思いや恐怖心も大分消えました。

  困難を乗り越えることは、恐怖心を無くす過程です。何回もの練磨を経て私は徐々に運転ができるようになりました。ある日、神韻の公演を見てシカゴから帰宅途中に風雪に遭いました。車も揺れて、さらに自分が居眠りをしていました。私は強大な正念を持つと自分に言いきかせ、如何なる妨害も認めないと、師父に加持をお願いしました。夜中の2時に無事に帰ることができました。

 今年の神韻を宣伝した時に、積雪に遭いました、大地はまるで氷の塊のようでした。自宅付近を運転しても、車が横に流れ、さらに勝手に坂の下へすべり落ち、とても怖かったです。幸い路上には誰も居なくて、私は車を止めて一息つきました。夫が家にいないため、私は2人の子供の名前を呼んで勇気をつけました。車のエンジンをかけると大通りまで滑り落ちました。大通りには塩をまいてあるため雪が融けて、普通に走れるので、やっと落ち着いてチケットの販売店まで行って同修を迎え、家まで帰りました。今の私は数年前と違って、もう自分の意志で山をも倒せるほど成長しました。

 (続く)

  2009年10月15日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/9/30/209279p.html

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