■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/10/15/mh165347.html 



自我を実証しようとする元を掘る

文/中国の大法弟子

(明慧日本)ある日、同修に問題があるのを見たとき、指摘すべきかどうかを同修と言い争ったことがありました。そのとき私は彼女の間違いを強調しました。同修は落ち着いて、心穏やかに私に言いました。「あなたは自分を実証する強い心を持って他人の足りない所を指摘しているので、かえって多くの同修の反感を買っている」

  同修との穏やかな雰囲気の中で、不満を抱いて外に向かって探していた私は落ち着き始めました。自分を振り返ると、長い間、同修の足りないところを指摘する時はいつも自分が正しいと強調し、切磋琢磨する時はいつも同修の発言から欠点を探して、自分の意見と食い違えば、直ちに意見を発表して、同修をひとしきり非難しました。最も深刻な問題は、もし自分が正しいあるいは自分が何か悟ったときは、よく問題があると思われている同修を訪ねて助けてやりました。この問題はこうやるべきだとか、こう悟るべきだとか言いました。同修が受け入れないと焦りましたが、もし同修が自分の話をメモすると、この同修は何とか自分の話を聞いていると思っていました。

  これらの深刻な問題を認識したとき、私は悩み始めました。どうすればいいのか? まさかこれからはもう交流しないのか? 「あなたは法を実証するのかそれとも自分を実証するのか、少なくとも同修にあなたの言葉を覚えさせるのではなく、法を覚えさせるべきです。さもなければ同修を間違ったところへ誘導してもあなたはそれがわかりません」と同修は私を目覚めさせました。

  私は同修の話が正しいと知っていましたし、自分の間違いも知っていました。しかし、私はどうしても理解できない問題がありました。「なぜ長い間この問題は改善できないのか? 同修が1人だけではなく、何度も言ってくれたのに、自分を実証しようとする元は一体どこにあるのか?」

  時間の関係で同修と長く切磋できず、疑問を抱いたまま私は同修と別れました。家に帰る途中頭に法の一段落が浮かび上がりました。(『法輪大法——長春輔導員法会での説法』)

  問:時には法を解釈するという過ちを犯すことを恐れて、きちんと輔導できません。

  師:この輔導のことについて、私は何回か話したことがあります。例えば、話すときにこのように話せば良いと思います。私の次元で私は法にこのような内涵があると悟り、これは私の次元で悟ったもので、もちろん法に更に奥深い内涵があります。自分のどこかが法と差異があり、またはこの法がある境地で何について説いたのか、などを話せば大丈夫です。しかし、法にほかの内涵があります。これは既にはっきりと説かれました。つまり自分の考えを固定してはいけないということです。

  私は法を実証するのか、自分を実証するのかをどう見分けるかすぐわかりました。私はこう理解しました。「私は大法の無辺の次元の中の1つの次元で悟っており、同修たちはそれぞれ異なる次元におり、もしかすると私より高い次元或いは低い次元で、皆大法の中で自分の異なる次元での理を悟っている。私がどうして同修を私の次元に限らせるのか? 同修を害して自分も害しているのではないだろうか。私自身がこうしなければならないとか、こう悟らなければならないというのは、自分をその次元に限らせているのではないだろうか? それで上の次元へ行けるのか、厳しくいうと、これは自分を大法の上に置いているのか」 この1年間心性の上昇がなく、かえって悟りが後退したと思えるのも無理からぬことでした。

  今私は本当に理解しています。私はただ無辺な大法の一つの次元の中の小さい粒子であり、同修者達は皆私が尊敬できる同修で、彼らは皆大法の異なる次元で精進しています! 師父が私を選んで大法の中で自分を洗う機会をいただいたことに深く感謝します。これらの尊敬する同修達が私の身の回りで私を助けるように按排された師父に再び感謝します。師父、本当にありがとうございました。私の身の回りの同修達にお礼を言います。

  個人の悟りですので、適切でないところがあれば、ぜひご指摘ください。

  2009年10月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/12/210023.html

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