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「師父にお願いする」ことについて

(明慧日本)11年前、私は修煉し始めたばかりの時に、次のような光景を観ました。師父は私を冥土に連れて行き、そこで私の多くの業を滅してくださいました。戻ってくると、私は自分の身体がベッドに横になっているのが見えました。これらの経験したことは夢よりはっきりしていて、11年経ってもまだ全て覚えています。業を滅するその方法は、体内から黒い糸が引き出され、私のお腹の左右に2つ黒い糸の軸があり、長い時間をかけてやっと引き出されました。当時、私が「終わりましたか?」と聞くと、「終わりました」と答えてくださいました。私は手を伸ばして2つ糸の軸をつかんで見ると、2つの空軸の上に一切れの糸がそれぞれ残っており、これは私が自分で滅するべき業だと分かりました。

 その後の11年、私は精進したり、怠慢になったり、転びながらも法を正す進展に付いて行きました。その中で、ネットやアニメに特に執着し、深くはまり込み、同修に指摘されたり難関や病業に遭うと、しばらく放下しますが、それが過ぎると再びやりました。長い間放下できなかった執着は邪悪に隙に乗じられ、最もひどい状況は子宮筋腫のような症状が現れ、激しい腹痛、大出血なども起きました。その時から私は「精進」するようになり、「師父、助けてください」と求めながら、同修の発正念を求め、補習のように学法や煉功しました。結局、難関を越えましたが、執着しているものはまだ放下できず、しばらくしてまた再び現れました。

 今回、最も恐ろしくて会社で病状が現れました。私は師父に「師父、助けてください、私は今日の仕事を順調に済ませて、家に帰ってから業を滅するようにしてください」と願いました。しかし、願い通りに行かず、同僚の前で面目を失いました。その日の夜、私は明慧ネットを開き、「病業の関門を越える」ことについての文章を検索し、自分の今の状況は、「師を信じ、法を信じれば生と死の関門を越えられる」という体験談の作者に似ています。その同修は乗り越えましたが、私はなぜできなかったでしょうか? 私は執着を捨てず、師父にお願いするばかりで、師父の慈悲を粗末に扱い、痛みを取り除くため、強烈な求める心で「補習的に精進」し、病業が消えた後、歓喜心が生じ、苦痛を忘れてしまいした。

 内に向けて深く探すと同時に、私は突然驚いたことに気づきました。自分の病業はずっと不思議で、左腹部のある点と右腹部のある点が交互に痛くなったり、同時に痛くなったりし、繋がって痛くなったりもしました。これは11年前に残されたあの2つの黒い糸の軸ではないでしょうか? 私はなぜ今まで気が付かなかったでしょうか? 私はここで本当にしっかりと悟りました。今まで何かあると「師父にお願いする」と言って、師父に受けていただいていたのです。実際これは本来、私自身が受けるべきもので、自分の不精進により、邪悪に頻繁に利用され、迫害されていたわけです。自分が努力せず、師父に多くを受けていただくなんて、本当に厚顔無恥でした。

 今回のことで、修煉は苦しいもので、人である以上まだ業力もあります。本当に心地良く、順調で、何の心配もなければ、それは円満成就ではありませんか? ですから、苦しみはあり、受けなければなりませんが、苦しみを味わうことを恐れず、内に向けて探すことを多くし、自らが受けるべき事は二度と師父にお願いしないようにします。

 2009年10月16日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/18/202937.html
(English:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/7/5/108851.html

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