謙虚について
(明慧日本)修煉するにつれて、私の法理への認識は一層また一層深くなり、同修との交流でも多く発言できるようになりました。私の法理についての認識ははっきりしていると同修も認め、私のところに来て相談する同修もいました。ところが、しばらくして、自分は同修より優れているという心が生まれました。時々同修が悟った何かの法理を語ると、私は「私はとっくにこの理が分かったのに、なぜ彼はそんなに遅いのか! こうして見れば彼の悟性はごく普通だ」と思ったのです。しばらくして、同修の認識は低いと思い、同修との交流がうっとうしくなり、明慧を読むだけになりました。その後、明慧の文章を読む時も認識が高いものを選び、以前のように謙虚に読めなくなり、同修の文章は私の文章より劣っていると思いました。以前は、同修の良い文章を読んで、自分と比べて、自分の不足を探しましたが、今は良い文章を読んでも、心は認めようとしません。
ある日、同修がまた私のところに来て交流に誘いました。私はすぐさま「交流なんか意味ないよ。みんな私より低いのに」と思いました。同修は強く私を誘い、私は面子のために断りきれずに行きました。私を含めて5人がいました。初め、ある男性の同修が語りました。私は聞きながら、心では、「私はとっくに分かっていた」という不満がありました。ところが、ほかの同修はみんな謙虚に静かに聞いていたため、私は仕方なく我慢して聞き続けました。聞けば聞くほど、同修の話が非常に理に適っていると気づきました。この同修は難関を乗り越える中で、心性の体験は私より深いのです。自分の忍耐力が強く、内に向けて探すのが上手だと思った私は、同修の話を聞いた後、自分が井の中の蛙に過ぎないことが分かりました。そして私は積極的な態度に変わり、同修と切磋し、多くのことを得ました。
その後、同修と何回か交流し、多くのものを得ました。たとえば、ある同修は、普段は何の体験も話さず、仕事も人に注目されない、ただの家庭の主婦で、私はずっと彼女を軽視していました。しかし、彼女は北京へ陳情に行ったことがあります。警官に強制連行されましたが、恐れることなく、強い正念を持ち、警察に真相を伝え、結局、その日のうちに 釈放されました。もう1人の同修は、主意識が非常に強く、簡単に妨害されませんでした。これらの同修の優れたところは、普段は現れないので、人は簡単に気づきません。私が普段見ていたのは、欠点だけでした。
ある同修の話は私に深い印象を残しました。「どんなに高く悟ったとしても、ある範囲の悟りにすぎませんので、我々には交流が必要です。しかも、誰にも長所があります。他人の優れたところは往々にして自分にはないものです」という話でした。これについて、私は深く体得しました。例えば、同修の中に、忍耐力が非常に強い人がおり、どんなに罵られても、殴られても、笑って対処できます。しかし、私は笑って対処できず、ただ努力して繰り返さないことだけはできます。苦しみを味わうことを上手く処理できる同修もおり、深夜も正念を発しており、煉功は毎日やっています。ある同修は「三退」を勧めることが良くできますが、自分を顕示していません、などなど。同修と比べて、自分はまだまだです。
幸いなことに、師父の啓発で、私は間違ったところから戻りました。本当に危なかったのです。正しいところに戻って、心も広くなり、穏やかになりました。
個人の認識なので、適切でないところはぜひご指摘ください。
2009年10月17日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/15/210393.html)
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