■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/10/18/mh193520.html 



病業の魔難の中、深く執着を探した経歴(二)

文/米国の大法弟子

(明慧日本)ここ数年間を振り返って見ると、仕事でトラブルに出くわしたことはほとんどありませんでした。夫と子供はアメリカに来たばかりで、それまではある同修と一緒に住んでいました。その同修とは非常に仲が良く、実の姉妹のようでした。しかし、トラブルがしばしばありました。毎回トラブルが発生すると、表面上は同修が些細なことで私を責め、私は気に障る言葉を聞くと機嫌を損ね、表面上は我慢していましたが、内心では快く思っていませんでした。時には我慢できず怒る時もあり、「彼女は是非を論じないで、うるさく言うだけで、私の仕事を妨害している」などの堂々たる理由もありました。後になり、怒ってはいけなかったともちろん後悔しますが、毎回、自分の忍耐と寛容を修めているのだと認識して、自分のどの心を目がけて来たのかは、深く考えませんでした。結局、師父が按排してくださった修煉の機会でしたが、正しく悟ることはできなかったのです。

 このような関はいつもあまりよく乗り越えることができませんでしたが、私は気に留めませんでした。これらは些細なことで、本当にそんなに深刻な問題なのか? 偽りの修煉なのか? と思っていましたが、自分の心の奥底の本当の考え方を覗き見ることにしました。どうして人に言われたり、誤解されたりしたらいやなのか、人から責められると機嫌を損ねることは、常人の中での安逸を求める心と「名」を享受したい心を刺激されたからではないのか? これこそ自分の根本的な利益を守りたい心ではないのか? それはすなわち偽りの修煉ではないのか?

 もちろん、後に発表された師父の『マンハッタンの説法』を読み、さらに明白に分かりました。「こういうことが起こるとき、神がどのように皆さんを見ているのかを知っていますか? 旧勢力はすぐにあなたのことを覚え、今回の行動は弱みとしてそれらに握られてしまい、厄介なことがあなたを待っています。この方面の心性が低いため、大きな面倒を引き起こします。気をつけてください」

 自分があまり注意してこなかったこれらの些細なことは実は大きな問題で、とっくに旧勢力に目を付けられたのも知らず、自分は大法の仕事を多くこなし、修煉がよくできていると思っていたのでした。ここ数年を振り返って見ると、トラブルに遭遇するといつも人間の理で量り、自分は人情、道理をよくわきまえており、相手が間違っていると思っていました。修煉者なら内に探すべきであるとは知っていますが、いつも自分を相手より高い位置に置き、自分は「度量」を修めるのだから相手と同じように争わないと思っていました。

 「人心をもって正しいかどうかを強調すること自体は間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手を要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」(『マンハッタンの説法』)

 やっと師父がおっしゃった「内に向けて探す」ことの真意がわかりました。修煉者が遭遇したいかなるトラブルも、すべては自分の心が引き起こしたことであり、決して表面上の正しさに執着してはならず、常人の理で量ってはならないのです。後天的に形成された自己の利益を守ろうとする観念や業力は、私たちが内に向けて自分の執着を探すことを妨げるので、深いところを掘り起こすときは骨身を削るように苦しく感じますが、しかし、このときこそ修煉者の正念で対処し、必ずそれを掘り起こし、取り除くべきなのです。このことが本当に認識できていたら、他人を恨んだり責めたりはしないはずです。なぜなら、一切のよくないことはすべて自分の心が引き起こしたことであり、トラブルを起こした相手は実はあなたを助けているのです!

 三、個人修煉の基点に立って「三つのこと」を行うと、旧勢力の落とし穴に落ち、法を正す基点に立ってこそ衆生を済度できる

 上で述べた自分の問題が分かり、悟性があまりにも低すぎたと後悔しました。修煉を始めてこんなに長いのに修煉の道でふらついていたのです。その後、身体の症状は徐々に消え始めましたが、まだ完全には回復しませんでした。きっとまだ何か悟っていないものがあるはずです。ある日、前に一緒に住んでいたその同修から電話があり、夢で何回か私を見たが、そのうちの一つは私たち2人に関する問題で、師父のご啓示のようだったというのでした。

 夢の中で2人は神韻の公演を見に行きましたが、私は普通の観客とは一緒に座ることができないと言い、空中に台を作って座りました。私たちが他の観客に影響を与えているという人もいましたが、こっちは不服です。「空中で見ているのだから、観客より高いので、どうして影響があるのですか?」このような夢だったそうですが、同修は、これは私たちが自分を衆生の上に位置づけしているので、衆生を救うどころか、師父の衆生済度に影響を与えているという啓示ではないかと悟ったそうです。

 彼女の話を聞いて、これは私が問題点をなかなかつかめないので、師父が同修の口から私に悟らせておられると分かりました。よく考えてみると、私は確かに自分を衆生の上に位置づけており、それだけでなく、同修よりも上に位置づけていたので、自分の問題点を認識できず、衆生に対しても慈悲を感じられませんでした。しかし、もし衆生に対して慈悲心がないとしたら、それでは、私はなぜ法を実証することを積極的に行っていたのでしょうか。私はサボったこともなかったのです。

 事を行う動機を見直したとき、私は認めざるを得ませんでした。私が積極的に大法の仕事を行ってきた主な目的は師父の良い弟子に「なる」ことでした。師父が三つのことを良くやってこそ法を正す時期の大法弟子であるとおっしゃったので、私の「仕事をしたい心」がこれほど強くなりました。しかし、それは決して本当に衆生を救うためではなかったのです。つまり、私は個人修煉の基点に立って大法を実証する仕事をしており、最終的な目的は結局、利己的な「私(し)」だったのです! まさに旧宇宙の利己的な「私(し)」から抜け出していないので、旧勢力に迫害の口実を与えてしまったのです。しかし、「仕事をしたい心が強いことイコール衆生済度の心が強いこと」という誤った認識が覆い隠されてしまったのです。今回の大きな身体の魔難がなかったら、本当に全く意識できませんでしたし、他の人に指摘されても認めなかったに違いありません。どうりで人に真相を伝える時の効果がいつも思わしくないのです。これまでどれほどの縁のある人に出会えたでしょうか。自分がこの問題をもっと早く認識できていたら、どれほどの人を救えたでしょうか! 本当に師父に申し訳が立たないばかりか、衆生にも申し訳がないのです。

 初めてこんなにはっきり認識できたような気がしました。修煉はあまりにも厳粛なのです! 幾層にも重なる「私(し)」を全部剥ぎ取り、完全なる純粋さに達してこそ、真の大法弟子と言えるのです。もし本当に根本から自分を変え、向上させることができなければ、修煉年数の長さなど何の意味もないのです。

 その後の1週間で、私の膨らんでいたお腹は急速に戻り、体力も回復しました。現在、私は再び元気一杯に法を実証することができるようになりました。私は常に自分自身を戒めています。「あなたは自分の修煉のために来たのではない、自分を証明するために来たのでもない。あなたは師父に遵って法を正し、衆生を済度するために来たのだ。基点を正しく置き、厳しく自分を律し、無条件に師父の言うとおりに行い、いつでもどこでも、一つの思い、一つの念でも自分を修煉者と見なすことだ」

 個人の体験と悟りにつき、不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いします。

 合掌。

 (完)

 2009年10月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/12/210090.html

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