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内に向けて探し、受益は尽きることがない

(明慧日本)私は現段階で修煉して得た心得を書き出して、皆さんと共に向上したいと思います。

 一、内に向けて探し、受益は尽きることがない 

 私はずっと長い間、人間の観念の束縛と旧宇宙の自己中心的な私(し)の要素により、旧宇宙の法理と関門の中で迷い続け、自己を堅持し、自我を実証し、自分の考えと思惟を固持してきました。常に、法を護るためということを口実にして長い間、外に向けて探し続けました。他人の不足を見つめ続け、他人のために法を勉強しているかのようでした。たとえば、勉強中いつも、法の中のこの段落は誰かのことを、あの段落は誰かのことを言っているようだと思い、内に向けて自分を探しませんでした。交流の際も、法理がすでに明晰になっているように思っていましたが、口に出したのは全部他人の不足でした。自分は真剣に着実に修煉し向上していなかったため、大法の各次元での奥義を感じ取ることや法力の現れを体験したことがありませんでした。

 私のこのような状態は全体で協調することと、協力し合うことに反対の働きをしました。全体が一体化した法の実証、衆生の済度に協力し合うことを邪魔しました。しかし、私は今日から旧宇宙の法理を突破して、あらためて自身を見つめてみると『洪吟・圓満功成』の「慈悲をもって世界を看れば 今し方迷いの中から醒める」の通りでした。私は自分がよく修めていなかったことと、真相の説明をよくしていなかったせいで、現地での法の実証に損失を与えたことに気付きました。

 しかしながら、この自己中心的な自我を固持する旧法理を突き破ることは容易なことではありません。『精進要旨・道法』の「皆さんの人間としてのこの一面を大切にしているのは、皆さんが法の中で悟りを高めることができるようにするためです」のように、慈悲なる師父は私に、チャンスを与えてくださいました。大法の威徳があるからこそ、私のような旧宇宙の生命が新宇宙に同化でき、新しい生命になることができます。

 徹底的に変えようと思ったのは私の一つの願いから始まりました。当時、現地の同修の間には意見が多く、隔たりも大きく、第三者としての私も巻き込まれてしまいました。私は人の観念を募らせて忙しくしていました。あるとき人を叱責し、あるとき弱いほうに味方し、あるときは不満を言い、あるときは義憤が胸に満ち、こちらの言うことを聞けば一理あり、そちらも一理があるように思い、どちらが正しいのか? どのように法に照らしたらいいのか? 方法が尽きても解決できず、結局双方の人は私に眼もくれなくなり、私との間に隔たりも出来てしまいました。

  このとき、師父が地方の同修を使って私に注意をしてくださいました。同修が私に「内に向けて探してください。そうすれば、問題を解決することが出来ますよ」といいました。修煉していくなか、内に向けて探すことや、他人を先ず考え、慈悲を持って接することが認識できましたが、探し方が分かりませんでした。『精進要旨・はっきりと目覚めよ』のなかの「仕事の時の口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです」 かれらの間にある問題は私が内に向けて何を探せばいいのか? まさか、かれらに「うちに向けて探してください」とでも言うべきでしょうか? それとも、私はかれらの隔たりを取り除く方法を探すべきでしょうか? 困惑のなか、私は心の中で師父に、「師父! 弟子は真にうちに向けて探し、他人を先に考え、自己を放棄し、他人に傷を付けることを絶対しません!」と誓いました。

  しかし、私は探し方が分からず、どうしたら他人のためになるのか、全体の立場で物ごとを考えることもできなくても、私に願望があったので、よい考えと現われた仏性の一面は慈悲で偉大な師父が見てくださり、向上のチャンスを作ってくださいました。法の勉強でいつの間にかわかるようになり、良い考えが強くなり、他人を寛容できるようになり、強制的に人を変えようとせず、自分の観念を固持せず、言い争うようなこともしなくなり、黙って同修の不足を補うようになり、うちに向けて探すことも出来るようになりました。以前の探し方が分からなかった原因も分かりました。それは私的な自我中心の観念があまりにも強く、うちに向けて探すことへの理解に強い障害となりました。

 それ以来、私の考え方が根本的に変わりました。正に師父は『論語』の中で「この領域を切り開くには、常人の認識を根底から変えなければなりません。さもなければ、宇宙の真相は人類にとって永遠に神話のままであり、常人は己の愚かな所見に限定された枠の中で永遠に這いまわるしかありません」と言われた通りでした。私は率直に誠意ある気持ちを持って、法と衆生のため、自我を放棄し尽くす決心を持ちながら、だんだんといかなる状況でも内に向けて探せる構造を形成しました。自我を放棄したら、すべてが大法からの賜り物だと気付き、私の知恵・技能、また私の生命や修煉して得た善心と内に向けて探す機制などは全部大法が与えてくれたものです。

 謙虚な気持ちを持って法を勉強していくうちに、私の空間場にある旧勢力の要素や、自己中心的な私欲が段々となくなり、私が以前内に向けて探すことができなかったわけが分かりました。師父の『転法輪』の中に「もしあなたが病気のことばかり考えるその心を捨てられないのなら、われわれは何もしてあげられないし、どうすることもできないということを強調しておきます」と書いてある通りです。また、「修は己にありて、功は師にあり」の法の現れを感じ取りました。大法が私に選択のチャンスをくださったので、私は他人のために生き、内に向けて不足を探し続け、旧宇宙の法理の放棄と、自ら進んで新宇宙の一粒子に同化することを選択します。

 二、法を学んで己を修め、正法の進展についていく

 私は人を救い済度する面で、人と顔を合わせて真相を説明することが少ないのです。しかし、これこそ最も重要なことだと分かっています。これこそ私達の責務です。農村に買い物に行くとき、同窓会や婚礼に参加するときなどを利用して、長年に亘って顔を合わせて真相を説明し続けている人を、私はとても敬服しています。私は同修のように、切迫した気持ちを持って、人を済度できるよう早く障碍を突破しなければなりません。

 全体として昇華、協力しあうことについていき、自身をよく修めると同時に周辺の同修を助けていこうと思っています。技術や機械の修理の問題についても、単に技術を通して解決するのではなく、同修と心性と法理において交流し合って、不足を探し出し共に向上していきたいと思っています。共に向上できるように、学法グループでの勉強や交流を通して、私達は全体にある問題について、個人個人が内に向けて探しました。例えば、法への認識について、感性の認識から必ず理性の認識まで到達しなければならないのです。できるだけ自分の問題の源を探し出して、同修達と交流しあいました。

 恐怖心を例にしてみれば、「私は以前、皆さんが真相説明に行っても、無事だったのを見て、それで、私もやり始めました。しかし、何かがあったら、すぐ怖くなってしまいました。法の勉強と交流を通して、私は徐々に自分は法への認識がまだ感性の段階にあること、理性的な思惟ではないと分かりました。私は正法の時期にいる大法弟子として歴史的な使命と責任があると悟ったら、することの出発点が変わってきました。私は自己中心的に考えることがなく、他人のために考えるようになりました。例を挙げていうと、同修が違法な裁判をうけたとき、法廷の傍聴に行くとき、恐怖心があって行きたくないのですが、皆がいくので私もいきます。正法時期の大法弟子としては、師父が必要とされていることをやるべきだと思います。法に符合し、衆生を済度できるのであれば、私はやるべきです。恐怖心のため、行くかどうかを図ることをしなければ、恐怖心が私の空間場に存在する理由もなくなります」と私は同修と交流しました。

 皆がお互いに内に向けて探し、全体で内に向けて探す環境を作り上げ、2、3人の同修が内に向けて探すことが出来なくても、この環境の影響で、すぐ追いつくことが出来ると思います。

 全体が協力しあうことに、初めは私の自己中心的な部分が強く、特に技術において、知っているからと、見せびらかしたくて、往々にして、良いアイデアは受け入れてもらえませんでした。最初は理解できませんでしたが、法への認識が高まるにつれ、すべては師父が下さったものだと悟りました。法の実証、衆生の済度のために使うべきものなのに、自身のために使ってしまい、そのため、提案が採用されませんでした。私は「自我」が全体で助け合うときの障碍の源だと分かり、絶対にこれを取り除こうと決心しました。強い自我への執着がなくなると、全体への関心が強くなり、難に遭う時に、全体から考える事ができるようになります。

 私の考え方が根本から変わったのは、法を良く学んだからです。法をよく勉強し、自身をよく修めることは三つのことをよくするためです。自身を良く修めていれば、全体で協力しあうことができ、衆生をよく済度することもでき、更に追い着いてきていない同修を助けることもできます。『祝辞』の中で「確固として最後の道をしっかり歩み、法をよく学び、自らをしっかり修めていれば、正念はおのずと強くなり、大法弟子が行うべき事を必ず良く行うことができます」と師父は仰いました。

 2009年10月21日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/10/17/210542.html

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