発正念の威力がなぜ違うのか 文/中国の大法弟子
(明慧日本)明慧ネットにはよく修煉体験が発表されています。修煉者は邪悪の妨害や迫害を受ける時に皆発正念をしますが、効果がそれぞれ違います。例えば警官が玄関まで殺到した時に、同修が発正念をして警官を撃退し、その同修を逃がす事が出来ます。また他の同修は発正念をしてから、外部の環境が変わり、警官が電話を受けたりしている時、逃げるチャンスが現れます。しかし、一部の同修は発正念をしたものの、邪悪に連行されました。
身体に厳しい病業の症状が現れる時に、それぞれの表れも違います。ある同修は発正念をして、病状がすぐに消えます。ある同修はしばらく発正念をして、最終的に病業の関門を乗り越えました。しかし、一部の同修は発正念をしても変わらず、最終的に病院まで行ってしまい、さらに旧勢力に命を奪われる人もいます。
同じ師父の弟子で、同じ大法を学んでいるのに、なぜ発正念の力に大きな差があるのでしょうか? 私の理解では、魔難が来た時に、発正念の目的、すなわちその出発点がその威力を決めるのだと思います。『転法輪』の中で、師父はおっしゃいました。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」
もし旧勢力の迫害を否定する基点が私のため、迫害されたくないと自分を保護する心理「たとえば自分の修煉に影響をもたらし、迫害の苦しみをなめたくない」ということであれば、その正念は効かないはずです。なぜかと言うとその「正念」は正念ではなく「求める心」でしかありません。もう一つのケースですが、邪悪が強いと思い、恐怖心があり心が落ち着かず、あるいは自分の正念が効かないのではないかと心配をしていると、正念の効果に影響を与えます。なぜかと言うとその時に神の念が足りず、人としての念が強すぎたのです。もし真に師父と法を信じて、その発正念が衆生を済度するためであれば、旧勢力の妨害を受けることなく、さらに他の空間の邪悪を根絶することができます。この時に、今の空間に現れた現象では、連行しに来た警官はかえって逃げ、或いは病状が消えるのです。
私が知り合った同修のことですが、病業の魔難に遭って、痛くてたまらず、自分がまだ何かの執着を無くしていないとばかり考え、発正念の時もきっと自分には問題があると思い込んでいると、結局だらだらと1カ月過ぎてやっと治りました。もう1人の同修は、同じ魔難に遭い、突然地面に倒れて動けなかったのですが、2時間後突然一念が浮かんできました、「私はまだたくさんのことをしなければならない、このままではいけない。どんな執着も必ず捨てます」と立ち上がった時、何の問題もなくなりました。その後彼女は私に、旧勢力を否定するその一念は山を割る程強くなければならないと教えてくれました。
病業の症状が現れる時に、発正念をして旧勢力を否定することを皆知っていますが、しかしその一念はどうやって山を割る力があるのでしょうか? いま考えると、やはり完全に人を救う出発点から発して、私利私欲のためではなく、無私無我で旧勢力を否定してこそ、その山を割る力が出てくるのです。
個人的な体得であり、ご指摘をお願いします。
2009年10月29日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/15/210398.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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