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低次元の思惟に入らない

(明慧日本)私は長年修煉して、毎日法もよく勉強し、三つのこともよくやっているつもりで怠ったことはありませんが、修煉の意味と、どのようにしたら修煉になるのかを理解して日にちがまだ浅いのです。恥ずかしながら、長い間偉大な宇宙大法を修煉しながら、大切にして精進しなかったので、師父の慈悲なる済度に申し訳ない気持ちでいっぱいです。その原因もとても簡単なことでした。法を勉強するとき、集中して勉強しなかったことや、真に内に向けて探さなかったことで、自身を修めることができず、常人の考えを捨てることができませんでした。

 幾度もの輪廻の中で、私たちは思惟の奥まで常人の考え方を浸透させ、変え難い執着にしてしまいました。いかなる問題に遭っても、自然に常人の観念で計り、人心と常人の観念が先行してしまいました。例えば、寒くなったら風邪をひく、炎天の場合は夏バテになりやすい、心地良いときを良いことと思い、悪いときを悪いことだと捉え、何かを得たら嬉しく、失ったら悲しく感じ、美しい異性を見かけたら欲が出るなどがあります。正法の中で修煉する場合には、真相を伝えにいくと強制連行され、労働教養所に送られ、判決を下され、共産党からの脱退を勧めたら密告され、明慧ネットを利用すればネット警察に発見され迫害される、などと考えたりします。このような良くない考え方は、共産党文化の中で長期に目的を持って強制的に学ばせられ、洗脳された結果できたものです。これらの観念と共産党文化の思惟に、共産党が長年の間、恐怖と高圧的な数々の政治運動の中で、殺人や悪行によって人々の心に植えつけた恐怖心から、これらのものは大法弟子が三つのことをする根本的な障害と大きな妨害になり、旧勢力が大法弟子を迫害する口実にもなりました。

  私は修煉の中で、時々これらの観念(特に恐怖心)を感じ取り、それは影のような存在で、私達の正信、正念、正行に常に干渉と迫害作用を働きました。しかし、大法弟子として私達はこれらの観念と執着を取り除かなければなりません。もし、私たちの一つ一つの考えが法に遵っていれば、それは正念で、神の考えになり、即ち高次元の思惟とみなされ、法に従っていなければ、それは人間から出た人の考え・観念・執着にほかならず、即ち低次元の思惟に入っているということです。私たちが修煉の中で低次元の思惟に入らないようにすれば、神の考えと状態を保つことができ、すべての神通力を持つようになり、師父の按排してくださった三つのことをよく行うことができて、多くの衆生を救うことができるので、邪悪の干渉や邪魔も歯が立たないようになります。

  師父は『2003年カナダバンクーバー法会での説法』の中で「その時の思考に人間のこのような思考方式と構造はありません。つまり修煉して出来上がった一面の思考構造は皆、神の最も素晴らしい基準に基づいて造られました。このような思考方式は低次元の思考に入ることはありませんが、低次元の全ては皆さんに分かっています。実はご存知かと思いますが、釈迦牟尼佛であろうと、他の神佛であろうと、彼らには牛や馬の考えまで分かっており、さらに次元の低い生命の考えまで分かっており、全てを知り尽くしています。しかし、彼らはその次元に入ることはありませんが、ただ何でも知っています」と示してあります。

 明らかに、神は絶対に低次元の思惟で物事を考えません。もし、低次元の思惟に入れば低次元の空間に落ちてしまい、低次元の生命になり下がるからなのです。大法弟子として、もし私達の考えが法に従っていなければ、その瞬間すでに低次元に思惟に入ってしまったことになり、一つ一つの考えが法に従っていれば、高次元の思考を保つことができます。

  私達は修煉する過程で絶えず大法に照らしてはかっていけば、人間の考えが抑えられ、神の考えと正念が強くなり、低次元の思惟に入らなくなり、高次元にいる生命の状態になり、当然奇跡が現れてくるので、より大法を実証することができます。「十・一」の中国共産党のいわゆる建国記念日の長い休みの後、ある日の仕事後の帰宅中、突然に空は雷がごろごろと鳴り渡り雨が降りそうになり、急いで自転車に乗って帰ろうとしましたが、会社の正門をでると、雨が勢いよく降り始めました。私は前にある立体交差橋の下でちょっと雨を避けようと思った途端、脳にあることが浮かんできました。ある年、師父は大連での説法を終えて錦州に向かう途中で大雨が降り始め、師父が「雨が降ってきたら、車の運転は難しいが、雨が降るのは天の定めで、そうなれば、車の後ろで降らせて、私達が先に行きましょうか」と言われました。

  結局、行く道中で車の前方は晴天で、後方で大雨が降っていました。当時の運転手もびっくりした様子で感服していました。このことを思い出して即座に一念が浮かんできました。「私は大法弟子なので、雨が降りたければ、私の後ろで降ってもらいましょう」という考えが出た途端、雨が止み始めました。もう遅いため、帰るのを急いでいたので、私の後ろで雨が降っていたかどうかは確かめませんでした。

  今になって思い出すと、あの日のことは当時の私は気にしていなかったし、普段の事のように思え、ずっと後になってから、神秘的で超常的なことだったと認識するようになりました。このことがきっかけで、私は「私達は往々にして自分自身の執着や人間の観念に干渉と障害され、仏法の神通力を発揮させることができなくなり、常人の状態になり、常人が大法弟子に対して何かをしようとしてもできるでしょうか? 常人が神に何かをしようと考えることができるでしょうか? もし、私達が法に溶け込めば、常人の考え方を根本から変えていき、大法の威力が現れて、私たちの正念でどんなことでもやり遂げることができます」と悟りました。

  個人の感想で、法に符合していない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

  2009年11月1日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/10/29/211284.html

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