人間の正道に戻り、倫理道徳を正す 文/中国の大法弟子
(明慧日本)私と妻はもう50歳をすぎています。1996年の3月に大法の修煉を始めました。10年の苦難の正法修煉を振り返ると、北京に法を実証しに行ったり、人々に真相を伝えたり、三退を勧めたりして、三つのことをしっかりやりました。警察に不法に連行されたり、拘禁されたり、労働教養をさせられたりしたときには、良くできないところがありましたが、残酷な迫害に対して、2人とも、しっかりと乗り越えました。しかし、家族の間のトラブル、心性の摩擦は難しく、堂々とすることができません。関をうまく乗り越えられない時に、2人とも、師父の法像の前に立って涙があふれ、心の中の苦しみを師父に訴えました。「師父! どうして修煉はこんなに難しいのですか?」 本当に胸をえぐられるように辛いのです。
私と妻は退職しました。息子は私たちが不法に労働教養を受けていた間に結婚しました。家に帰った後、嫁はかわいい女の子を産みました。最初の時、私たちはいつも彼らのことをかわいがって、彼らに借りがあるという気持ちでした。簡単に苦労、忍耐、黙々と我慢したりするだけで、家庭での矛盾を解決できると思っていました。「情」と「善」を間違えてしまいました。「情」を「善」とみなし、「私欲を放任する」 ことを「大きな忍の心」とし、子供たちが出した要求なら、なんでも満足させることを「最大限に常人に合わせて修煉する」ことだと思い、家庭で修煉する環境をよく利用できず、何度も向上するチャンスを失いました。
私たちは「情の魔」から抜け出られなくなり、ますます深く陥りました。家事、洗濯、食事は全部私たちがやって、息子と嫁に携帯、車を買って、ひいては借金をして、家を買ってあげました。それから、妻は自分の退職金の預金通帳まで嫁にあずかってもらって、彼らの欲望を満足させようとしました。私たちは考えを間違えたのです。自分はお金に執着しないし、常人はそれを大切に思っているので、彼らにお金をあげたら、力になるし、トラブルも少なくなると思っていました。
こうしてあげたら、彼らは満足するはずなのに、まだ文句がいっぱいあって、私たちの悪口を言いました。最後にトラブルが激しくなってから、やっと私たちはいけないと思って、内に向かって探し、真面目にこの数年間の子供への扱い方を反省しました。
師父は『精進要旨・道法』の中で、次のようにおっしゃいました。「長きにわたって大法(ダーファ)の中にいる衆生、特に弟子には心性を向上させる上で、ずっと法に対して異なる次元での誤解があります。魔難が訪れるたびに、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこの一点を利用して尽きることのない妨害と破壊を行なっていて、修煉者は長期にわたり魔難の中に陥っています。 本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神としての一面を抑制して、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制して、神の一面が法を正すのを阻(はば)んでいるのです。 修めてまだできあがっていない一面が、どうして主思想を抑制して、すでに法を得た一面を抑制することができるものでしょうか? 人為的に魔を養ったことで、魔が法の隙につけ入っているのです。弟子として、魔難が訪れた時に、本当に平然として動じないか、異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するというところに心を置くことができれば、充分に関を乗り越えています。 それでも魔難が尽きることなく長引いていて、もし、心性か行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放置していた隙につけ入っているに違いありません」
反省して分かりましたが、ここまできたのは、師父が按排してくださったこの家庭という環境の中でしっかり修煉していなかったからです。自分の修煉の次元を低く、狭く置き、情の魔に隙につけ入られ、魔難が大きくなり、それが自分の修煉環境だと思って、長期にわたって、魔難の中から抜け出られなくなるのです。情は三界内で生まれたもので、人間として生まれた時から、情の中に浸かっています。情は人間の本性の表れで、人間はそのために命さえ捨ててもいいのです。もし修煉者が、情で常人のことを解決しようと思ったら、違う結果が出てしまいます。人と人の間には因縁関係があるのです。慈悲は三界より高いのです。修煉者が長期に苦労した修煉によって、無私無我で、他人を自分より先に考えるようになった境地で、偉い神様だけが具えるものです。
慈悲はすべての正しくないものを溶かすことができます。私たち大法弟子は慈悲の善の念を持って、周りの人に対処すれば、彼らの正しくない考えを一瞬のうちに解体させることができるのです。中華民族の五千年の文化、「礼、義、仁、智、信」はすでに中共邪党によって変異しました。今の中国では目上と、目下の秩序は逆になっており、乱倫(人の道に外れた行いをすること)などのことは、もう人間の道徳の最低のレベルにも達していません。子供は親孝行をせず、目上の人は目下の人に誕生日のお祝いをし、何でも目下の人の顔色をうかがって行動するのがもう今の社会の普遍的な現象です。知り合いのお年寄りの話ですが、「私には孫ができたが、孫の世話人に成り下がってしまった」このお年寄りの話は社会の不良な現象を反映しました。実は倫理道徳が滑落したのは、人々がみなその勢いを助長したのです。
法を正す時期の大法弟子としての私たちは、人間の正しい道に戻り、人類の倫理道徳を規正することが正法修煉の一部です。私たちが今やっていることのすべては新しい人類に残るのです。師父は『精進要旨・修者忌』の中で、「親族の情に執着するならば、必ずそのために疲れ、まとわり付かれ、魔がさして、その情の糸をつかんで一生をかき乱されるのですが、年を取って悔いたところで遅いのです」とおっしゃいました。情への執着を取り除いてこそ、情に疲れず、まとわりつかれず、魔がささないのです。取り除く過程は修煉の過程で、修煉の過程において、だんだん情に対する執着を取り除いて、昇華すれば慈悲になります。常人の貪欲に限りはありません。大法弟子の周りに起きたことはすべて偶然ではありません。私の家庭のトラブルがここまできたのは、すべて私たちがしっかりしていないからそうなったのです。人の貪欲の心を放任して、人為的に自分の魔難を大きくし、自分の考え方を旧勢力の観念に合わせ、隙に乗じられたのです。これは邪悪が私たちを迫害する手段を変えただけです。これは私たちを阻害する最大の障害です。
法を勉強し、交流して、認識を高めてから、私たちは自ら子供に対する情を薄め、家庭の中の正しくない観念とやり方を是正し、目上の人を尊重し、幼い子を可愛がる意識を確立し、自分のことは自分で行ない、家事を全部私たちがしなくなり、子供たちの気持ちに従わず、彼らの喜怒哀楽に影響されないようにしています。私たちが歩いているのは最も正しい道で、神への道を歩いている大法弟子なのです。
以上は、いかにして家庭の関を乗り越えたかについての浅はかな認識です。正しくないところはどうかご慈悲に指摘してください。
2009年11月1日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/10/11/210010.html)
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