■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/11/06/mh072991.html 



神韻公演の宣伝活動に参加した修煉体験(一)

文/トロントの大法弟子

(明慧日本)世界を風靡するニューヨーク神韻芸術団(以下、神韻と略す)の、2009年カナダトロントで公演が決定して以来、この数週間、私は修煉において大法に同化する過程で向上してきた中で、その喜びと恩恵に涙が出るほどの感動がありました。私は、目の前に現れた奇跡に驚くばかりでした。宇宙と万物を創造する偉大なる佛法を目の前にすると、人間のさまざまな感情は瞬間に消え去ってしまいます。弟子として、大法を実証し体験したことを書かずにはいられません。同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 一、「内に向けて修する」という宝器を忘れずに

 トロントで神韻の中秋公演開催が決定してから、私はすぐある同修を訪ねて公演について相談しました。かつての神韻を宣伝する時の問題点や状況について、互いの意見を交流する中で、仕事のやり方などを議論しました。

 数日後、1人で静かに最近の説法を学んだ際、特に大法弟子の協調性について、『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』で「何かを行うとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考え、・・・」と書かれていました。何度も読むうちに、だんだんと心の容量が広がるのを感じ、次々と頭に浮かび上がってくる過去の言動に驚きました。以前、ある同修に指摘した問題は私にもある程度存在していると気付き、闘争心、嫉妬心、怠惰な心、功績を顕示する心、そして自分がずっと気にしていない色欲などがあります。突然、背中に冷や汗をかきながら、昔から自分がすでに内に向けて修することから離れて、大法全体に悪い影響を与えていると分かってきました。この時、まさに骨をえぐるほどの苦しさを感じました。

 大法に相応しくない行動を取る同修を見た時は、それは師父がわざわざ作ってくださった自分を向上させるためのきっかけだと思いました。しかし、それに対して、まず人心を取り除かない状態が続く同修のことを自分が心配するような形で表れましたが、実際は自分の取り除かれていない執着心の再現であり、正しい道を外れて外に向かってしまうことを意味します。内に向けて修しないことで形成された間隔は、旧勢力が修煉者に試練を与える口実になりますので、ある問題を解決することに対して、普段より努力しても一向に変わらないように旧勢力は按排します。それについて、神韻公演のチケット販売の事例を挙げれば、販売の状況が良くならないことに反映します。師父の教えから外れてしまうと、結果として、内に向けて修しないことで間隔が生まれ、衆生を救い済度することを妨害する原因となります。

 この時、神韻公演を宣伝する時間が限られていると思うと、心から一念が動じて、「弟子にチャンスをください。過去に作った過ちによる損失を償いたいのです。これから、神韻を宣伝することを通じて、『内に向けて修する』という宝器で、何も求めないように修煉します。なかなか取り除かれない執着に、神韻の宣伝と衆生を救い済度することに支障を来たさないように自分を修します」と師父にお願いしました。

 二、観念の転換

 神韻公演の開催にはさまざまなプロジェクトがありますが、往々にしてほとんどは個人の能力と希望で、やりたいプロジェクトを選択しています。その多くは、個人の立場から物事を決めてしまいました。

 神韻公演の前の数週間、私は神韻公演開催のチャンスを大切にしたいという強い願望から、大法に同化したいと毎日の学法にいそしんでいました。大法を通して一日一日と向上していく中で、本来の観念が抜本的に変わったと感じました。私は、個人を全体の中に置き、全体の行動に協調する中で、さらに円容と補助の姿勢を持とうと決めました。

 ある日、協調人の同修から、運営資金が厳しいため、公演の広告はほとんど公演間近に手配され、公演前の数週間が大事なのに、宣伝の広告がないということを聞き、ちょうど今の状況に合わせて企業からの広告の協賛を要請してみようと決めました。

 同修に、ある広告会社を訪問して協賛を要請するように言われたことがあります。数年前にも、同じく神韻公演のプロジェクトに参加して業務を展開しましたが、企業に広告の協賛を呼びかけたことはありませんでした。その時、そういった業務は私の得意分野ではないと思いながら、口頭だけやってみると同修に答えました。しかし、結局は、心理的に突破できず、とうとうやり遂げることができませんでした。

 たまにある広告会社の近くを通り、大きく掲げられた広告看板を目にするたび、いつも足を止めて、「世界一流の神韻公演はこの地元で一流の大手広告会社の広告看板に相応しい」と正念を発してこの一念を加えました。また、同修との交流において、広告看板も他の空間では生き物として、立てられた日から、すでに神韻のために準備されたと思うので、早いうちにこの広告会社を訪問しよう、と意見を出しました。

 さっそく、広告会社に電話をかけました。しかし、留守番電話で、担当者が休暇を取って不在だということで、戸惑いながら、連絡を数日後にしようと動きが止まりました。ある日、自分が連絡した広告会社から協賛を得た同修のことを耳にしました。その時、心は、半分喜び半分落ち込みました。落ち込んだ理由は、あってはならない嫉妬心が働いたと気付き、すぐに座って嫉妬心を完全に取り除こうと正念を発し続けました。次に、今の私に何ができるのかと自問自答する中で、広告の協賛も正念で無事を祈る必要があり、同修と正念を続けることも大切だと思いました。そして、ある同修に自分の意見を持ちかけて、話し合っていく中で、私はいつも常人の観念をもって物事を遂げようとする形にとらわれる自分を発見し、衆生を救い済度する同修の純正な心に感動しました。

 このように一連のできごとに出会った私に、師父は、その内に向けて修する心があれば、広告の協賛を要請することに力を注ぎたい心があると見てくださるかも知れません。突然、ある同修から電話で広告会社に連絡をする仕事を頼まれました。その一瞬、師父がどれだけ私の修煉を見守ってくださっているのかが分かり、何も考えずに同修の話に応じました。

 (続く)

 2009年11月6日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/28/207278.html

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