■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/11/07/mh084448.html 



安逸心は修煉を台無しにしてしまう(一)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)1999年「7.20」以前の私はとても精進していました。毎晩グループ学法に参加し、夏冬に関わらず朝3時ぐらいに起きて屋外で集団煉功に参加していました。しかし、「7.20」以降はグループ学法の環境を失ってしまって、私はだんだんとだらけてしまい、ついに、安逸心(何もしないで気楽に過ごす)により煉功を止めました。それに、政府が禁止したのだから、私自ら煉功したくないのではないと、自分に聞こえのいい理由を探しました。実は、ここに一つの最大の執着が潜んでいました。それは安逸を求めていることです。煉功をしなければ朝早く起きなくても大丈夫です。特に冬の外は寒くて、布団の中にいればどんなに暖かいでしょう。このようにして私は法から離れ、安逸心によって落ちてしまいました。

 しかし、慈悲のある師父は私を放棄せず、いろいろな工夫をしながら同修を通して再度私を引っ張り上げて下さいました。大法を離れてからまた戻ってくるまで、ちょうど1年あまりの貴重な時間を浪費してしまいました。戻ってきたばかりの数年間はとても精進していました。朝早く起きて煉功し、昼間は法を勉強し、夜は外に出て真相資料を配っていました。ほとんどは私一人で配っていました。緊迫感がありながら順序良く行いました。身体はいつも軽くて、歩くと風のように速かったのです。

 しかし、最近の二年ぐらいはどうしたのか分かりませんが、以前と比べて精進しなくなってきて、煉功も三日坊主で、身体も重くなったような感じがしました。三つのことの行う量が少ないと分かっていますが、なかなか精進できません。朝早く起きて煉功すべきだと分かっていますが、目が覚めても起き上がろうとしません。このように無関心な日々を過ごしていました。私もとても苦しかったのです。どうしたらいいでしょうか? 私は時間を浪費していいかげんに暮らしているのではないでしょうか。学法もしていますが、どうしても精進する気持ちにはなりません。同修のこの文章を読んでやっと目が覚めました。私の精進を妨げている根本的な原因は安逸心です。

 師父はこのように説法されています。「何かの魔難に遭っていませんが、だんだん精進しなくなった一部の学習者は、実は常人社会の各種の誘惑に対して執着が生じ、社会の誘惑によって引き下ろされたのです。」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』) 「修煉していく過程で自らを修煉者と見なし、本を読み、法を学んで精進していくうちに、自分が入門した時、どういう考えで大法(ダーファ)に入ったのかを、はっきりと見分けなければならないのです。修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心があるからこそ、自らをその中に留めているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれていなく、法の上で法を認識できていない、ということです。」(『精進要旨(二)・圓満成就に向かって』)

 私は自分を法と照らし合わせはじめました。師父が伝えられているのは佛法で、人を天国まで済度でき、地獄に落ちなくてもすむと、私はこんな考え方で修煉を始めたのです。楽な生活を追及したり、地獄に落ちるのを恐れたりして、これらはすべて安逸を求める心ではないでしょうか? これが私の根本的な執着だったのかと目が覚め、ここ数年来の修煉はずっとこの執着心に影響されていました。私は家について非常に執着があります。どこそこで新しいマンションを建てる予定だと聞いたら、その場所が気に入れば、マンションを換えようと思います。わが家の客間は暗くて、客間の明るいのに換えたらどんなに広々として明るいでしょう。主人を説得しましたが、主人は同意してくれませんでした。あまり執着してはいけいと分かっていますが、執着してしまいます。魔に指図されているようで、主人を引っ張ってマンションを見に行きました。しかし、今になってもまだその心が変えられません。入門する時点で心が純粋でなかったので、ずっとこの安逸心に惑わされています。私は冷静になってこの安逸心を細かく分析してみました。

 分析した結果、私は安逸心を二つに分けました。つまり、精神的安逸と物質的安逸です。安逸心はたくさんの執着と欲望を誘発することができることが分かりました。

 先に精神面から話しましょう。私は人々の間では、わりと美人で性格もよく、話し声もやさしくて、人と接する時も気配りがあると言われ、同修と交流する時に同修に役に立つ法理を言うこともできます。ですから、同修達と仲がいいです。トラブルが起きた時も内に向かって探すことができますので、同修とはほとんど隔たりがありません。これらのことで、私はよく褒められています。褒め言葉としては大体このようです。誰々(私のこと)は美人だし、若いし、仕事もできるし、悟りもいいし、本当によく修煉ができています。褒め言葉がたくさん耳に入ると名利心が生じ、気持ちがいいです。自分を抑制しようとしていて、またいつも、褒めたりしないで、同修のためにならないから、と同修にも忠告していますが、深く内に向かって探したら、やはり褒め言葉を聞きたいのです。自分の言っていることが賛成されなかったら、心が晴れず、メンツが立たないと思ったりします。内に向かって探すと、安逸を求め、精神的な苦痛に耐えたくなく、内に向かって修煉せず、トラブルを避けたいのではないしょうか? 気持ちがよいと感じた時は精神的な安逸を求めているのではないでしょうか? 褒め言葉は聞きやすくて気持ちがいいです。実はこれは偽りの現象ではないでしょうか? あなたにしばらく気持ちよくさせましたが、大きな執着を増やしてしまいました。人に依頼する心もこの安逸心によって生成されたのです。

 (続く)

 2009年11月7日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/11/2/211715p.html

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