内に向けて探し、利益を求める心を取り除く 文/法の粒子(中国)
(明慧日本)法輪大法を学んで10数年になり、トラブルが生じたときは内に向けて探すことは知っていました。ところが、実際にその場に立たされたときは、往々にして内に向けて探すことができず、相手のことを論じ、起きた事について論じてしまい、時には怒っていました。そして、どのような方法で相手を納得させるか、自分が損をしてはならず、相手に得をさせてはならないと考え、自分が修煉者だということを忘れてしまいました。
相手がいかに自分をいじめたかと同修に愚痴をこぼして、その相手の常人がどうしてそんなに悪いことをするのか、その人と会いたくないため、職場をやめて逃避することで解決しようとしていました。最近、私は法の暗記を通して、師父は、トラブルが発生したときは偶然ではなく、すべては大法弟子の心によるもので、トラブルが生じたときは内に向けて探すようにとおっしゃいました。法理に対して真に理解できれば、再びトラブルが現れたときは、内に向けて探すようになり、どの執着心によるものなのかも分かるようになりました。
私は個人経営の会社に勤め、営業を担当しています。顧客から注文が入ったときは、社長に電話をして商品の発送を依頼します。電話をする時間は1分以内と決め、かけるときも時間を見ながらかけました。時には社長が聞き直したりするときは、時間をオーバーしてしまい、余分に3円を払わなければならないと考えると、機嫌が悪くなりました。実はこれは利益に対する執着心なのです。私たちは利益を求めるために世間に来たのではなく、師父に随って正法に来たのではありませんか? この執着心は無くさなければなりません。
私は執着心を認識したときから、以前のように電話の時間をあまり気にしなくなりましたが、時にはまた現れることがあります。あるとき社長に電話をかけたとき、社長は手が込んでいてすぐかけ直すと言われました。そのときの私の一念は「よかった、社長が電話をかけてくれれば、私は電話代が節約できる」という考えでした。私は10分ほど待ちましたが、社長から電話がかかってきません、忘れたのだと思ってかけ直しました。ところが社長は「顧客の電話番号を教えるから、自分で電話するように」と指示されました。私は表向きでは納得したように「はい、分かりました」と返事をしましたが、内心ではまた電話代がかかると思い不満でした。そして、顧客に電話をかけましたが、顧客は私の話を聞き取れず繰り返して聞き直し、私は大声で何回も叫んで、顧客はやっと私の話が通じたようでした。電話を切って心の中で不平不満が現れ、社長が私に電話をかけさせるから、こうなったのだと思いました。
ちょうどそのとき1人の同修が来てくれました。その同修に先の出来事を話そうとしました。話せば楽になるのですが、それでは執着心を放下していなかったのではありませんか? その場では同修に愚痴をこぼしませんでした。家に帰って落ち着きを取り戻し、先の出来事について反省しました。10数年修煉してきましたが、わずかな利益も放下できず恥ずかしい話です。師父の慈悲なる済度にも申し訳ないと思いました。そのとき、脳裏に『転法輪』に書かれている言葉が浮かびました。「わずかな利益のために争ったりして、そういう時の考え方と用いる手段がきわめて悪質なものとなっていて、今や良い人間になるのも大変難しいのです」 この法理は今の自分に言われていると思いました。
私はこの文章を上の段落まで書き終えると、仕事に向かいました。2人の顧客から直ちに注文がありました。私は社長の奥さんに電話しましたが、奥さんは社長に電話するようにと言われ、社長に電話しました。今回は電話代のことは考えませんでした。社長から、1人の顧客は私の家の近くなので帰りに商品を届けるようにと言われました。このときの私は不平不満がなく、喜んで引き受けました。私は初めて利益を求める心を放下できました。わずかな金額にわずらわされなくなった私は、身も心も軽くなりました。心から師父と大法に感謝いたします。
昨年の『明慧週刊』に掲載された同修の文章に、次のような法が書いてありました。「ですから、いざこざが起ったときに、各自は内に向けて自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。周辺に起きるすべてのトラブルや、あなた達の間に現れたいざこざ、現れたすべてのことは恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきことがあるのです。この事があなたのせいであるか、また彼のせいであるかを問いません」(『ヨーロッパ法会での説法』)
私はこの法を暗記しました。しかし、トラブルに遭ったときは、自分の内に向けて探すことができず、やはり相手を責めていました。数日前、同修から電話があり、家に来て欲しいとのことでした。私は同修の家を訪ね、呼び鈴を3回鳴らしてやっと返事がありました。そこで私は心のバランスが取れなくなり、次回同修を尋ねたときは、呼び出し鈴を長く5回連続して押しました。それでも返事がなかったので、私は立ち去ろうとしました。同修は私であることに気づき呼び戻しました。私は家に入ると同修はテレビを見ていました。その光景を見た私は怒りがこみ上げてきて、私が来るのを歓迎していないからテレビを見ていたのだと思いました。同修は座るよう勧めてくれましたが、私はすぐ部屋から出ました。
心の中で彼女のことを見下し、二度と来ないことにしよう、彼女と接触しないことにしようと考えていました。そこで師父の(『ヨーロッパ法会での説法』)が脳裏をよぎり、私は内に向けて探すべきだと思い、他人を見下すということは嫉妬心によるものではないか、同修は気づかなかったからドアの鍵を開けなかったので、何も怒ることはないはずです。私は執着の根本を探してみました。自分には利益を求める心、相手のことを考えない心、相手を寛容しない心、慈悲心がないためにもたらした結果なのです。考えもしなかったのですが、私にはこんな多くの執着心があったのです。それから、相手の執着心を見つけたときは、自分にも同様な執着心があることが分かりました。ですから、トラブルが発生したときは大法に照らして相手を探すのではなく、自分を探さなければなりません。
同修の交流文章が私の修煉を助け、啓発してくれたことに感謝します。私は自分の修煉体験をまとめ、同修と交流したいと思いました。不適切なところがあれば、ご指摘ください。
2009年11月9日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/26/211155.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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