■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/11/13/mh141374.html 



「使命感」と「仕事をする心」

文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)大法を実証しようとするとき、同修から注意を受けました。「仕事をする心には絶対にならないように!」 それを聞いて私のやる気は自然に減りました。もし、仕事をしているときに妨害を受けても、同修の言葉に賛成で、自分の仕事をする心が原因であると分かっています。学法を通じて、私はこのことについて新たな発見がありました。

  『北米での巡回説法』の中で師父は次のようにおっしゃいました。「ですから、大法弟子の責任は、個人の圓満成就のためではなく、法を証明する中で衆生を救い済度するためです。それこそ、大法弟子の歴史的使命であり、真の大法弟子の偉大さです」

  『導航・ワシントンDC国際法会での説法』の中で師父は次のようにおっしゃっています。「大法の進展について来られた全ての大法弟子は、皆行うべきことを行いました。未だに家にこもって表に出て来ないのにまだ自分が修煉していると思っている人は、比べてみればどうしてそれが修煉と言えますか?」

  衆生を救うことは私たちにとって大事な使命であり、長い歴史の中における神々との荘厳な約束です。衆生を救うことをたくさんすればするほど良いことであり、多く救うほど偉大であり、もっと多くのことをし、多くの人間を救うのは、大法弟子の修煉から出てくる慈悲であり、歴史が私たちに与えた偉大な使命感と言った方が妥当です。なぜ仕事をする心というのでしょうか?

  仕事をする心とは何でしょうか。

  師父は次のようにおっしゃいました。「この大法を良く勉強することができなければ、あなた自身の圓満成就は保証されません。しかも、あなたが行なった全ての大法のことは常人が何かを行なう時と同じようになり、常人の考えで、常人の基点から行なってしまいます。それが常人であり、せいぜい常人が大法のために良いことをしていることになるに過ぎません」(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』) 学法に気を向けず、法を自分の指導とせず、大法に関することをするときに「常人の考えで、常人の基点から」仕事をしているときの心理状態を正さず、神の念で自分の行動を主導せず、仕事自身を「修煉」として、仕事だけに満足すると仕事をする心になるのです。

  個人の体験では、「仕事をする心」は仕事をするときに常人の心になっていることを指し、たくさんのことをしたいと思うことが「仕事をする心」ではありません。法を正すことにおいて、私たち大法弟子が多くの人を救うことが必要です。私たち大法弟子が毎日1人でも多く救えば、それこそが師父が期待しておられることなのです。1人の常人が大法のことをしているとしても、それでも多ければ多いほど良いのです。私たちが取り除くべきなのは、仕事をしているときに生じる正しくない心理状態なのです。

  最近、私は同修が「達成感」を表していることに気づきました。すでにできたことに満足し、自分がよくできているという考えが生じ、「定力」や「無為」などは自分が修煉してできたと思い込んでいます。誰が救われるか誰が淘汰されるかは決められていて、我々はただ「自然のまま」にやっているだけで、救われる者は必ず救われ、同修が自ら進んでやっていることや焦っていることを「執着」や「迷い」「仕事をする心」などと思い込んでいる同修もいます。これらの同修は大法のことをしているときに緊迫感が足りず、時間があれば多くやり、時間がなければ少なくやるか、もしくは、やらないのです。法を基準にするのではなく、衆生を救うことを基準にしています。

  私にこれらを見せているということは、私も自分の内に向けて探さなくてはなりません。私たちは共に楽をしたいという心を無くし、法をしっかりと理解し、最後の最も重要な時期に私たちの成すべきことを成し遂げて、師父の慈悲を無駄にしないようにしましょう。

  個人の意見であり、法に合わないところがありましたら、慈悲をもってご指摘ください。

  2009年11月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/10/204268.html

明慧ネット:jp.minghui.org