日本明慧
■印刷版   

90歳のある老人の修煉物語(三)


文/中国河北省の大法弟子

(明慧日本)

  四、病の関門を乗り越える

 私は大法を修煉してから、前後して3回、病の関門を乗り越えました。最初の2回は師父と大法を信じてとても早く乗り越えられましたが、3回目の関門は1年も続き、身体はますます弱くなって、60キロあった体重が40キロに落ち、足も腫れて歩くことも困難を感じ、三つのことを行うにあたって影響も出てきました。最後にはご飯も食べたくなくなりました。娘は私を病院に連れて行きたがったのですが、私は断固として行かず、「病気ではないから、数日過ぎたら良くなるよ」と言いました。娘は外国の薬を持ってきましたが、私は飲みませんでした。こうなっても、私は毎日三つのことをやり続け、法輪功の真相資料を配りに行くのですが、遠くへ行けないので家の近所に配りました。私は子供達の助けを受けず、家事はすべて自分でやり通して、身体がいくら辛く感じても、ベッドに横たわることはほとんどありませんでした。

 ある日、私は『転法輪』を気の向くままに開くと、写真の中の師父が私を見て涙を流しておられました。以前私がよくできたとき、師父はいつも微笑んでおられましたが、今回師父が涙を流されているのを見て驚き、今回の病の業は重くなるかもしれないと思いました。今になってこの考えが間違っていると悟りました。それでも、私は師父に向かって「師父! 私のことを心配なさらないでください。私は必ず乗り越えます」と堅く誓いましたが、身体はやはり日に日に悪くなる一方で、全身の五臓六腑がすべて痛みました。以前の持病がまた蘇ったかのように感じ、時々自分の身の回りに低次元の魂が見え、私がそれらを直視し続けると溶けてしまいました。

 自分の執着を探し出せなかったため邪悪に迫害の隙を与え、心性を向上させることもできず、身体が悪くなる一方でした。ある古い修煉者は私の家に来て私と一緒に法を勉強し、交流し合い、内に向けて探し、根本的な執着を見つけることができませんでしたが、『転法輪』を1回読み終えると、身体が良くなってきたと感じました。また、師父が最近発表された数篇の新経文を読みなおすと、多くの法理を悟りました。どのように内に向けて探すかも分かり、自分が迫害された原因も分かってきました。それは同修との心性の摩擦を乗り越えず、邪悪に隙に乗じられ、旧勢力はこのことを通じて私を引きずり降ろそうとしています。甚だしきにいたっては私の人身を奪おうと企んでいたのに、私がまた悟らないので、師父は私をみて涙を流されていたのです。

 あれは去年のことです。ある人が1部の大法の資料を私の娘にくれました。「母のところにたくさんあります」と、娘は言いました。この話が警察に伝わっていき、数人が私の家に来ました。当然ながら、彼らを家に通しませんでしたが、この事件が勉強グループに波紋をもたらしてしまいました。当時の私は正念を失い、同修に迷惑をかけてはいけないと思い、私の家での勉強グループを解散してしまいました。私は別の勉強グループに参加し、その中の1人の同修と摩擦を起こしました。その同修が私のことをこれがだめあれもだめと非難し、私は口では何も言い返さなかったのですが、内心では面白くなかったため、同時に同修の欠点を探し出し、不満を募らせていました。自分の闘争心や顕示心が暴かれました。本来は自身の向上のための関門で、より大きな器になるべきなのに、悟らず、心性が向上できず、旧勢力に隙に乗じられ、病の関門となってしまいました。原因を悟ると、執着心も見つけだし、身体がすぐよい方向に向かって、日に日に良くなってきました。今はほぼ健康な身体に戻りました。私と摩擦があった同修も急に私と仲良くなり、何事もなかったかのようでした。

 今回の病の関門を乗り越えた経験を通じて、私はこれからどのようなことに遭っても必ず内に向けて探し、自分の一つ一つの考えを正し、邪悪に迫害する隙を与えないこと、難儀の中で争わずただ自身を見つめるべきだということを悟りました。

 最近、師父の新経文を勉強し直し、心性がまた大きく向上して、自分が徐々に正しい修煉の道に戻ってきたように感じ、世間のすべてをますます薄くみて、聞いても耳に入らず、見ても目に映らないのです。子供たちが世間話をしているとき、大声でしゃべっても内容が聞こえませんが、同修達が何を話しても聞こえますし、法理上での交流ならさらによく聞こえます。大法の書籍の字はよく見え、眼鏡が必要ないのです。常人のものなら見えなくなり、見たくもありません。私の命は延長されたものかどうかを気にせず、ひたすら修煉と衆生の済度に励もうと思いいます。私は1人の生活なので、食料を子供たちからもらう以外、すべての家事を1人でやり、他人の助けはいらず、自分ができることなら自分でするようにしています。今、私は子供たちと争いません。争ったら自身の次元を落とすだけでなく、子供たちにも業を作らせることになると認識しました。私は必ずしっかりと修煉を行って浄化していき、多くの衆生を救い済度できるように努力していきます。私は地方の言葉を話すので、自信がないため、三退をよく勧めていませんでしたが、今後は努力していこうと思っています。

 私は今年90歳になり、正法の道のりがあとどれくらい残っていても、三つのことをしっかりと行い、師父が中国へ帰ってこられるのを待つ自信を十分に持っています。私はすでに世の中に求めることは少しもありません。ただ、師父が帰ってこられたら、師父にお会いしに行く旅費を少し残しておくことが唯一の願いです。

 (明慧ネット第6回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会原稿)

  2009年11月19日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/11/4/211753.html

■関連文章
ある90歳の老人の修煉物語(一)
ある90歳の老人の修煉物語(二)
病業が現れたら内に向けて探す
内に向けて探し、利益を求める心を取り除く
病業の魔難の中、深く執着を探した経歴(一)
「縁がまだ来ない」という観念は衆生を救うことに支障を来たす
真に内に向けて探すことを学び、協調の仕事を通じて昇華する
積み上げた柴に関する出来事
魔難を向上のチャンスにする
文章を半分まで書いた時