日本明慧
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協調と協力について

(明慧日本)以前の私はダンスを見るのが好きでした。しかし、神韻の公演を鑑賞したあと、協調が取れた集団の踊りがこんなにも素晴らしいものか、これはどんなに優美な個人のダンスも比べることはできないと思いました。昔、師父は集団煉功について次のように説法されました。「同時に集団で煉功するときの場のエネルギーは非常に強く、確かに人々の修煉に有益なのです」(『北米第一回法会での説法』) それでは、同修の間はどのようにしたらうまく協力ができるのでしょうか? これらの問題について、私はずっと法に照らしながら黙々と考えを実践してきました。今日、私は個人の角度から体験を述べ、他の同修の参考になれば幸いに思います。

 一、自己への執着の危害

 自己への執着は各種の人心をもたらしてしまいます。個人の修煉を邪魔するだけでなく、直接全体の協調と協力に影響を及ぼし、環境をさらに複雑化します。自己に対する執着は自分を中心に考えさせ、自分の認識に他人を協調させてしまいます。私達はいつも自分が大法で物事を判断しており、指摘は許さず、しかも、これは他人のためだ、全体に対して責任を負うためだと思っています。実は、私達はみな自分の法に対する理解で問題を見て、同修に要求しています。しかし、大法は私達の浅い認識ではかることはできないので、自分のある時期の認識に執着してはなりません。

 嫉妬心について

 まさに自我への執着で自分を人より能力があると思わせたり、生活の中の利益と奨励は他人ではなく全部自分に与えられるべきだと思い込んだりします。ですから、他人の成功を見ると心が辛くなり、もし他人が何かの利益を得て、何かで認められ、奨励されたとき、自分が得られなければ心が苦しく感じます。もし、誰か知っている人がある面において失敗したら、彼らを責めて、ちっとも慈悲の心がないのです。いつも他人の誤りを見てしまい、他人の良いところが見えません。内に向かって探さなければ、自分の誤りを認識することができないのです。

 顕示心について

 顕示心も自己への執着の表れです。このような心理は人にいつも自分のやり方で物事を進め、他人に自分のやり方に同意してほしいと思うのです。それは、自分の問題を見る方法が「正しい」と思っており、自分に反対する人の意見に耳を貸そうとしないからです。同修間の付き合いの中でこの問題はよく摩擦を引き起こします。

 二、善意で人を理解する

 大法弟子は、誰もが大法の貴重さを知っています。誰でも法を実証するプロジェクトをしっかりと行いたいのです。しかし、個人の認識の違いやそれぞれの立場が異なることによって、意見の違いが生じます。自分と意見が違っている同修、特に自分の意見と正反対の同修に対して、私達は盲目的に相手が法の立場に立って物事を考えていないとか、他人のことを配慮していないとか、甚だしきに至っては独断で相手が法を破壊したがるなどと結論を下してはいけません。盲目的に、批判的に結論を出すことは同修を傷つけてしまいます。同時に、同修の間の隔たりを増やしてしまい、法を実証するプロジェクトの進展を妨げてしまいます。実は人と人との間のいわゆる矛盾はたいして大きな問題ではなく、多くの時にそれは誤解から生じたものなので、善意で他人を理解し、他人のことを悪いほうに考えないようにすべきです。

 ある時、ある同修がCDを作りましたが、1人の同修がそのCDを見て怒りながらこう言いました。「あなたはどうしてちっとも同修のことに配慮しないのですか。あなたは本当に修煉者ですか。あなたはCDにラベルなどを貼っていますが、書いてある内容は全部敏感な内容なので、配る同修はどのように配ったらいいのですか。あなたはどうして同修の安全を考慮しないのですか?」 CDを作った同修は、自分は同修のことを考慮したからこそ、内容が見て分かるようにこうしたのだと言いました。CDの種類は多いので、ラベルを貼れば同修は見分けが付きやすく、きれいなラベルは常人を引きつけると、CDを作成した同修は思っています。実はこの事を通して、私達は一つのことに対して、物事を考えている角度が違っているだけで、誰が正しいか誰が間違っているのかは一概には言えないことが分かります。しかし、盲目的に同修を責めてしまえば、隔たりを作ってしまう可能性があります。違う意見を言うときに、もし善意で言うのではなく、長期に非難の口ぶりで言うのであれば、日に日にそれは積み重なってしまい、最終的に同修の間では和解できないほどの対立をもたらしてしまう可能性があります。

 立場を変えて問題を見直せば、人と人との間の不愉快や対立を取り除くことができます。インターネットで次のようなことを書いてある文章があります。「ある人が統計を取りました。普通の人がコップを置く習慣を調査した結果、普通に置く人と逆に置く人との比例は1対1でした。しかも、一番重要なのは理由がみな同じなのです。すなわち「比較的、衛生的だから」というのです。この統計を読んだときに、世の中には自分のやり方と違う人が半数もいて、それぞれが考えている理由はみな同じなのだと心が震えました。常人の中では、「道は異なるが、行き着くところは同じ」という言葉があります。私達は自分の意見と異なる声を尊重すべきです。

 もちろん、私達は同修の欠点や不足を見たら、修煉者として常人のように、人の恨みを買うことを恐れて、表では何も言わず、裏で言い合う、というようなことをしてはなりません。これは同修のために責任を負わないことに等しいのです。修煉者は「真」を修めなければなりません。大法弟子同士は心の扉を開いて交流すべきです。ただし、私達は善意で自分の意見を表し、謙虚に誠意を持って同修と交流することを学ばなければなりません。

 2009年11月22日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2009/11/19/212882.html

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