■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/11/22/mh231050.html 



「心の隙間」について

(明慧日本)昔、道を求める若者がいました。彼は人生の真諦を知るために、苦労を惜しまず、長い間苦難な旅をして、道士を訪ね、山を登り河を渡り、各地を歩き回りながら答えを探していました。月日が経ち、彼は数多くの人に出会いましたが、本当に納得できる成果は収められず、失望してしまいました。どうしてこうなったのかと彼はいろいろ考えましたが、結局、その原因を探し当てることはできませんでした。

  その後、ある塾の先生から、彼の郷里のそう遠くない南の山に、得道した高僧がいて、人生の真諦に関するさまざまな難問に答えられると聞きました。そこで彼はさっそく、高僧を探しに出発しました。

  若者は南の山のふもとに来ました。柴を担って山を下りてくる木こりに出会い、「この南の山に得道した高僧がおられるのですが、どこに住まいがあるのか、どんな顔立ちをしているのか、知っていますか?」と尋ねました。木こりは「この山には確かに得道した高僧がおられますが、住まいは知りません。高僧はいつもあちこち行脚しながら、縁がある人々を済度しています。容貌となると、仏光に照らされ、とても気品があると言う人もいれば、髪はぼうぼうで、顔はあかだらけだと言う人もいます」と言いました。結局、はっきりしたことは誰にも分かりませんでした。

  木こりにお礼を言い、若者は決意も新たに山の奥へ向かいました。その後、農夫、猟師、牧童、薬草を採る人びとに出会いましたが、人生の真諦を教える得道した高僧にはずっと出会えませんでした。

  絶望して若者は山を下りました。路上でボロボロのお碗を持っている乞食に出会い、乞食に水をもらって飲みました。若者は乞食の手元から水袋を取ってお碗の中に少し水を入れました。しかし、乞食が飲む前に、水はお碗の隙間から流れてしまいました。仕方がなく、若者はもう一度水を入れて、乞食に速く飲むようにと催促しました。すると、乞食がお碗を口元に持っていった途端に、水はさっきと同じく全部漏れてしまいました。

  「こわれたお碗で水が飲めるわけがないのでは?」と、若者はイライラして言いました。「可哀相な人だね。人生の真諦を求めてあちこちを探し回って、表面は謙虚だが、心の中では、人の言うことが自分の考えに合うかどうかを判断している。あなたは自分の考えに合わない話を受け入れようとしないのです。この先入観はあなたの心に大きな隙間を作ってしまったので、求めている解答は永遠に得ることはできませんよ」

  それを聞いた若者ははっと悟って、急いでお辞儀をし、「大師こそ私が探している高僧ではいらっしゃいませんか?」と聞きました。答えの声が返ってこないので若者が頭を上げて見ると、さっきの乞食の姿は消えてしまっていました。

  お碗に穴が開いていると、水を入れても溜まりません。心に隙間があると、人生の真諦を知ることができなくなります。道を求めるのは良い願望ですが、人心に左右されないで、初めて本当の真法を得ることができるのです。人間は世の中で多くの観念を形成してしまい、これらの観念をもって物事を評価し判断すれば、未知のことに先入観を持ち込んでしまい、永遠に真理の扉の外に隔てられるのです。

  これらの心の隙間とは何でしょうか? 利己心、嫉妬心、頑固、先入観、邪推、落ち着きがない、憎しみ、恐れ、傲慢、弱気など、全てが心の隙間です。人により心の隙間はそれぞれに異なっているだけです。

  人間は聖人ではないので、誰もが過ちを犯します。俗世間の中で迷い、誰もが心に隙間ができてしまうのです。隙間があってもかまわないのですが、恐ろしいのは隙間の存在を知らないこと、隙間があると知っていても改めようとしないことです。そうすれば、隙間はますます大きくなり、自分の人生を駄目にしてしまいます。隙間があれば必ず補うこと、このことこそが最も大事なのです。

  2009年11月22日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/11/19/212915.html

明慧ネット:jp.minghui.org