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困難にひるむ心を修める


文/中国河北省の大法弟子

(明慧日本)私は1998年の春に法輪功の修煉を始めました。当時はみんなが集まって集団煉功をしていましたので、自分も毎日続けていくことができました。1999年7.20以降、私は北京へ法輪功の実態を訴えに行きましたが、現地の留置場に監禁され、17日後に釈放されました。心の中では大法が良いものだと知っていましたが、恐れる心が生じたため、周りの人を見ながら修煉することを始めてしまいました。1年あまりの間、家事などの些細な事に気を取られて、学法を緩め、煉功も毎日堅持することができませんでした。

 正法が進むにつれて、師父は私達に発正念をして邪悪を取り除くよう教えてくださいました。初めの頃は心を込めてしていましたが、後には発正念は本当に作用しているのかどうかという疑いの心が生じてきました。発正念をする時、常に集中力がないために大きな作用を果たせないのは当たり前です。心を静かにできない原因を探して乗り越えようとするのではなく、自分自身に口実を設け、発正念をする意志を緩めてしまいました。それにより睡魔に邪魔され、アラームの音を聞いてもそのまま寝てしまいます。同修との交流で、みんなは毎日の4回の発正念はとても重要で、逃してはならないと話していました。日中は用事があってできないとしても、夜は何もないのに発正念を毎日していませんでした。最初の頃は、夜12時(中国時間)の発正念を一度も漏れなく行い、時間までに服をはおって座り、眠いなどの感覚はありませんでした。正法が今日まで歩んできましたが、自分はなぜますます自分を緩めているのでしょうか?

 煉功もそうでした。明慧ネットで3時50分に同時に煉功を開始しようとの知らせが載った初めのころは、時間になると起きて、五式の功法を一度で終わらせていました。2カ月ぐらい続けてきましたが、また続けられなくなりました。私は自分の状態を変えようと試みましたが、自分を制御することができませんでした。アラームで目を覚ましても、また寝てしまいます。後で、起きられず、煉功をしなかったことを非常に後悔します。しかし、このように今日にいたるまで後悔し、修煉状態は非常に不安定でした。私は後悔ばかりしてきましたが、前に向かって進まなければならないので、今日これを書いて自分の執着を暴こうと思います。

 一体どのような心が自分の修煉を阻んでいるのでしょうか? 師父はおっしゃいました。「上士、道を聞けば、勤めて之を行う」(『転法輪』)私は師父の要求通りに行いませんでした。長時間考えてもやはり怠惰が邪魔をしていました。私達の修煉は自分の魔性を取り除き、佛性を充実させることで、魔性を修めて取り除かなければ、魔性に栄養を補給し、育てているのと同じです。魔性で私達は発正念することをおっくうだと思い、真相を伝える事をおっくうだと思い、自分を強く引っ張っています。危険がすでに傍にやって来ているのに、自分ではまだ気付いていません。

 どのようにすれば精進できるのでしょうか。やはり法を多く学ぶことです。自分に根気がないのは、常人の中で養った後天的な習慣で、また目新しいものを求める執着もあります。例えば、常に師父の最新説法を見たがっています。最新経文が出ると喜んで2回読み、そしてもう分かったと思い、深く学びません。何をしても最後までやり通せませんでした。この後天に形成された観念を正しく認識しなければ、これは修煉の道中の大きな山にも等しいのです。

 目新しいものを追求する心は必ず修めて取り除くべきで、私は今日これを暴いて解体しようと思います。煉功を生命の一部分と見なして考えれば、この困難にひるむ心を必ず取り除くことができると思います。煉功を重視しない同修は、自分のさまざまな執着を深く探してみましょう。同修と共に切磋琢磨し、共に精進し、そして、その名に相応しい正法時期の大法弟子となります。

 2009年11月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/11/23/213131.html

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