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「真・善・忍」を同時に修めてこそ、真の修煉となる


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は2007年に修煉を始めた大法弟子です。最近、法を学ぶときに偶然にも、自分の修煉に誤りがあったことを悟りました。ここで、文章にまとめて同修と切磋したいと思います。

  私は常人のときに本を読む習慣があり、時には原稿を書いていました。修煉を始めてからもこの習慣を保っていました。常人のときと違ったのは、法輪功の書籍や明慧ネットしか読まなくなったことです。時には明慧ネットに投稿していました。明慧ネットの同修は私を励まそうとして、私が投稿した文章を掲載してくれました。本来ならこれらのことは誰が考えてもいいことなのですが、私は自分をしっかりと修めなかったため、良いことが私の修煉の障碍になったのです。自分は法を学ぶのが上手で、修煉するのも上手、他人より上達するのが速く、よく修煉できていると思い、潜在意識の中で他人よりレベルが高いと、他人を見下していました。また明慧ネットへの投稿が自分の修煉の近道だとさえ思ってしまい、法を学び心性を修めることに代替できると思いました(もちろん明慧への投稿は修煉の一つですが、私はここで言いたいのは、主と従を逆さまにしてはならないということです)。このように、法を学ぶことと文章を書くこととのバランス関係を保てなくなり、書くことを第一に考えるようになりました。

  「三つのこと」をしなければならいないことに加え、私は新しい修煉者でもあり、個人修煉と正法修煉を共に行わなければならず、それによってさらに時間と精力の不足を感じていました。そのため、法を学ぶ時間を減らし(好意的にではなく)、グループで法を学ぶことに参加する回数が少なくなり、自分で法を学ぶ時間も少なくなり、法を学ぶ量を追求したため、常人のときに形成した習慣で本を読むことがきわめて速くなり、そのため心を静めて法を学ぶことができなくなり、法理を読み取れず、心性を高めることができなくなったため、同じ次元で徘徊していました。

  もう一つの原因は、グループで法を学ぶときに、同修との関係を正しく保つことができませんでした。私は毎日のように明慧ネットを閲覧しています。そのため、ほかの同修と比べれば情報をよく知っているつもりで、特に邪悪の迫害と安全上の問題についてよく知っていると思いました。そこで全体の昇華につながり、または目覚めさせることができると思い、自分の知っている情報を同修に伝える必要があると考えました。私の出発点はよいものだと思いますが、私が法を学ぶときは量を求め義務のようにしていたため、実は法理に対してそれほど理解していませんでした。そのため、同修と情報を交換するときは、心の用い方がよくても往々にしてよい結果が得られなかったのです。今になって悟ったのですが、私の修煉において「真」を注意深く修めていましたが、「善」と「忍」がおろそかになっていたのです。

  私は自分が明慧ネットを閲覧できること、投稿したこと(同修は私が投稿していること知らない)をいいことに、同修と話すときの語調は高慢になり、同修の上に立つ態度で話していました。また居丈高(相手を抑えつけるような態度)にふるまい、自分に理があれば相手を許すことができないような態度で話し、同修の表情、気持ち、感受を顧みず、自分の都合で言葉を率直に言ってしまい、若い同修のプライドを傷つけてしまいました。このようにして、私は同修との間にトラブルが生じ始め、同修は私の言うことを聞いてくれなくなりました。私の周りには年配の同修が多いのですが、速い時期に修煉を始めた同修なので、寛容と忍はよくできていました。しかし、同修たちの表情や態度からは、心の奥に隠れている「あなたは新しい修煉者で、協調人でもないし、やることが厳格すぎるのでは? 自分に能力があるという、顕示心があるのでは?」という考えが読み取れるのです。

  私がこのように書いたのは、同修の心を詮索しているのではなく、これらのことを感じたときは内に向けて探すことにありました(実はよく執着の根本から探していなかったのです)。自分の良くないところが見つかれば、同修に自分の良くないところを曝け出し謝りました。そのときの同修は笑顔で、私に「悟性」がよいと褒めてくれました。しかし、あまり時間が経たないうちにまた元に戻り、悪循環が続いていました。私はそのことで心身ともに疲れがたまり、時には修煉者にふさわしくない「怨み」が生じ始め、疎遠の心が生じ始めました。そして、私は知らず知らずのうちに旧勢力の按排で「同修同士の間隔」を作る道に迷い込んでしまい、心の中で「自分さえよければよい」、「余計なことに口出ししないようにしよう」と思いました。

  私自身の修煉状態、全体の修煉状態が同じ次元にとどまり昇華できていないため、砂のようにバラバラになり、まとまりがなくなったような気がしました。このように邪悪に隙を与え、乗じられる機会を与えてしまいました。地元では、わずか1カ月の間に4人の同修が前後して連行されたのです。この損失は大きかったのです。連行された同修4人のうち、2人は「洗脳班」に送られ、1人が未だに解放されていません。この出来事を通して、私は徹底的に内に向かって探し、はっきりと目覚めるときだと痛感しました。

  私は原稿を多く書き発表するという執着心を放下し、心を静めて法を通読することにしました。『転法輪』の第12ページの下から3行目に「すそ野を広げて考えれば、法はとてつもなく大きいのですが、頂点に立って説明すれば、法はピラミッドのような形をしているので、非常に簡単なものになります。最高の次元では三文字で概括できます。それが『真・善・忍』にほかなりません」 通読したときは、私の心はぴくりと動き、若干の法理を悟りました。『転法輪』の第14ページの7行目を読んでいたとき、私の目は釘付けになりました。師父はこのようにおっしゃいました。「われわれの『法輪大法』という法門は、宇宙の最高の基準—真・善・忍に基づき同時に修煉するので、われわれの修煉する功はとても大きいのです」と書かれています。そうです! 私は「真・善・忍」に基づいて修煉したのでしょうか? この部分の法は数えきれないほど読んだにも関わらず、私はなぜ「同時に修める」ということを、心に留めなかったのでしょうか?

  これで私は分かったのですが、修煉者として真の話をし、嘘偽りのないことをしなければなりません。他人の受け入れ能力を考えず、単刀直入に率直に話すことは「真」の法理には適しているのですが、それだけでは修煉者として遥かにもの足りないと思います。

  「真」も宇宙の根本的な特性なのですが、それは修煉者の修煉にとって最初の出発点にしか過ぎず、重要なのは「善」を修めることです。師父が私たちに教えてくださったのは、「善の最大の表現は慈悲であり、慈悲は巨大なエネルギーの現れで、すべての正しくないものを解体することができます」(『2009年ワシントンDC法会での説法』) 善を修めなければ同修の手助けをできないだけでなく、人々を救うこともできないのです。私は「真」を修めることを重視し、「善」と「忍」を修めることを軽視してきました。そのため、同修に善を持って接しておらず、忍もできていませんでした。今まで同修と正しい関係が築けなかったのは一つのいい例であり、一つの教訓でもあります。今考えてみれば、同修のあらゆる「表現」は、私に修煉の環境を提供してくれました。残念なのは私が悟るのが遅すぎたことです。この場をお借りして、同修に「ありがとうございます」と声を大にして言わせてください。

  「忍」について、私たち修煉者として、正法時期の大法弟子は必ずできなければなりません。なぜなら、忍ができたときは「真」の表れであり、忍ができていないときは「真」もできていないことになります。善についても同じことが言えます。善ができたときは「真」の表れであり、善ができていないときは「真」もできていないことになります。忍は形のないものですが、「真」と「善」、そして慈悲の力を最大限に発揮させることができます。人の良知を啓発することができ、衆生を救い済度することにおいても、時々言葉の効果より勝ることがあります! 師父は教えてくださいました。「『忍』は非常に強いものであり、『真』と『善』を超えています。修煉の全過程をとしてあなたは忍耐しなければならず、心性を守って、妄りに行動してはなりません」(『法輪功』)

  この文章の文末を書いているときに、私は突然「同修」という言葉の意義をより深く理解するようになりました。私の理解が正しいかどうかは別として、ついでに書き出したいと思います。私たちは「真・善・忍」を同時に修めなければなりません。それは師父が啓示してくださった法理なのです。しかし、私たちは同門の大法弟子として、お互いに助け合い、互いに指摘し合い、お互いに円満成就して元に帰るのではなかったでしょうか? 

  「各自は己さえよければ、他人はどうでもよい」 それでは同修といえるでしょうか? 自分の円満成就のことだけを考え、同修のことを気にも留めないのでは、あなたはその同修たちを世間において元に帰ることができますか? 師父の要求は、「皆さんがみな成熟するようになったら、次の段階が始まります」(『放任しないように、鬼を招かないように ◎師父評注』)なのです。私は「都」(すべて)の法理は私たち全体の昇華、ともに精進し、一緒に元に帰ることを指していると理解しています。皆さんは、師父が早く「法が人間界を正す」ことを切実に待ち望んでいるのではありませんか? 師父は法理を分かりやすく示してくださり、修煉者の基準も示してくださいました。

  あとは私たちが「成熟」し、神の大審判がやってきたとき、神に「法を正す中で正しい作用を果たすときに職責を全うしたのでしょうか?」と聞かれたときに、あなたはどのように答えるつもりですか? ですから、円満成就して元に帰りたいのであれば、同修のすべての「成熟」が不可欠となり、成熟しようとすれば『真、善、忍』を同時に修めることが不可欠なのです。師父に随がって法を正すことについても、ただスローガンを叫び、大きな流れについて、にぎやかに騒ぎ立てるだけで、関門を乗り越えることができるでしょうか。

  少しばかりの悟りで、同修と切磋し合いたいと思います。不適切なところがあれば、どうぞご指摘ください。合掌。

  2009年11月29日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/11/18/212839.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2009/11/25/112608.html

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