■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/12/15/mh172640.html 



私の修煉

文/長春の大法弟子

(明慧日本)大法が中共に迫害されている10年の中で、私は時に精進し、時にだらけていました。総じて言えば、この10年は中国大陸の大法弟子が反迫害の中で成長し、法を正す中で修煉して成熟する過程です。私はたくさんの事を経験して、尊師が私達を押しながら助け、向上させておられる事を明らかに感じています。

 (一)「情」から跳び出す

  修煉を通して、「情」は女性大法弟子の修煉にとって最大の妨害だとわかりました。女性は情が重く、固く執着しているからです。特に数十年の家庭生活によって、身内の「肉親」に対する情はすでに知らないうちに自分の全てになっています。「情」という魔はすでに根強く骨の中まで染み込んでいます。難関を突破する時、なかなか乗り越えられません。

  修煉前、私は自分の結婚に対して不満ばかりでしたので、悔しさや恨みがいつもありました。修煉してから、前より良くなりましたが、「情」を放下できず、内に向かって探すことが分からないので、悔しさや恨みはしょっちゅう出てきました。夫のすべてに不満で、すべてが思い通りになりませんでした。学法と修煉を結びつけることが出来ず、問題が現れると、いつも常人の考え方と方法で対応して、常人の心で無理矢理我慢していました。根本的な問題が解決していないため、2年あまり、苦しみは絶えず、途切れることなく、夫や子供達との間のトラブルで、家庭がめちゃくちゃになっていました。

  慈悲な尊師は、私がこの関を越えられないことを見て、朝の煉功の時、「修煉者は常人から跳び出して常人の中の事を見るべきで、家の事を他人の事として見て、対応すればよい。自分が修煉者であれば、自分の家は寺院であるので、出家した人がなぜ自分の子供にしょっちゅう自分を見に来てもらうことを求めるのか?」という考えが、突然私の頭の中に浮かんできました。

  私は急に恥ずかしくなりました。私のどこが修煉者でしょうか? 甚だしきに至っては常人にも及ばない時さえあります。本当に尊師の慈悲な済度に合わせる顔がないのです! その上、自分が長年修煉したのに、「情」だけを放下できないのではなく、実は何も放下していませんでした。

  この苦しみを経て、心を静めて新たに自分を見つめ直しました。私は真修弟子でしょうか? 尊師と大法を本当に信じているのでしょうか? 答えはもちろん「はい」ですが、それなら何故高まらないのでしょうか? それは、学法が足りず、法を正す進展について行かれず、常人が執着していることに執着しているにも関わらず、まだ自分はましだと思っており、本当に危険です。常人のものを何も放下せず、名誉も情も放下していませんでした。その上、情の中から出てきた各種の執着も、まだ意識できていませんでした。尊師の啓示によって修煉者は神の念を使うべきで、法に基づいて高まれば、家庭の環境も変わりました。

 (二)名利心と嫉妬心を取り除く

  定年退職する前、私はある企業の責任者でした。企業の創立から事業の輝かしい発展へと、数年来「名誉」を追求してきました。「人は過ぎ去ると名を残し、ガンは音を残す」という言葉はすでに私の座右の銘になっていました、追求して、表われているのは人生の価値あるものと思っていたので、仕事の中で他人の評価を特に重視して、名誉を自分の第二の命と見なしていました。名利のために、30年余り負けん気が強く、その名利の背後にまた虚栄心、闘争心と顕示心があり、強い嫉妬心と貪欲心を覆い隠して、知らないうちにそれらが既に自然なものになっていました。

  修煉の中で、私は自分の名利心、虚栄心、闘争心と顕示心を取り除くことに重点において修めましたが、とても難しかったのです。

  常人の中の重い執着心が強大な業力を形成して、妨害はとても大きかったのです。煉功の時、心をずっと静めることが出来ませんでした。なにかに遭うと知らないうちに顕示心、名利心など、いろんな人心が出てきて、修煉はしっかりと着実に出来ていませんでした。

  「人とは何か、情慾身に満つ 神とは何か、人心存する無し 佛とは何か、善徳巨く在り 道とは何か、清靜として真人」(『洪吟』「人覚之分」)

  この法を暗唱できてから、長年名利心を取り除くことができないのは、私心があるためで、いつも先に自分を考えるからでした。常人は物事に遭うとき、まず自分の利益が損を受けないように考えます。貪欲は最も悪辣な魔で、どれだけの常人がそれによってダメになったでしょうか? 修煉者は必ずその心を捨てなければなりません!

  たとえば、運転する時、よく追い越して先に行こうとします。その原因は、一つは他人の運転が下手で、自分がうまくて早い。二つは他人の良い車を見て、気分が悪いということです。法を学ぶことを通して、秩序にそって運転しないで先に行こうとすることも、実は他人のうまい汁を吸うことになると解かりました。ほんの些細なことでも自分の焦る心、顕示心、嫉妬心、闘争心などを反映します。修煉は絶えず学法して、各種の執着を取り除き、一念、一念を法に見比べて、法に基づいて自分の行為を修めなければなりません。

  また、法を正す時期の大法弟子が常人の中で修煉する時、すべての考えは大法に基づくべきです。法を正す時期の大法弟子の使命は、自分をしっかりと修めると同時に、真相を伝えて衆生を救い済度することです。常人の中で常人の生活をして、大法から得た利益を享受することではありません。学法によって、本当に認識できたのは、世の中のすべてが仮相であって、すべては大法のために存在しているので、その他のすべては二の次であるということでした。

  法を正す進み具合によって、『共産党について九つの論評』と『党文化の解体』が次々と出版されましたが、私はこれらの本を読みたくありませんでした。自分の空間場に邪悪な要素が多く、真相を伝える事や衆生を救い済度することに大きい影響を与えた事をまったく認識できていませんでしたので、真相を伝えることがしっかりとできず、特に「三退」を勧める時、気力が足りませんでした。

  明慧ネットの同修の交流文を読んで、また同修との交流によって認識できたのは、自分の学法、『共産党について九つの論評』と『党文化を解体』を読むこと、及び正念を発して邪悪を取り除くなどの面ではまだ差があるため、自分の空間場の中の共産党の邪悪要素を徹底的に解体できず、自分の空間場を清浄に出来ないので、共産党の邪悪が私の法を正す事と衆生を救い済度することを邪魔しているのです。だから真相を伝える時、はっきりと説明ができず、救い済度できる人も少ないのでした。

  これらが解ってから、今から、『共産党について九つの論評』と『党文化を解体』をしっかり読んで、学法を強化し、正念を多く発することによって、自分の空間場のすべての邪悪な要素を一掃して、学法、煉功をしっかりして、正念で邪悪を取り除き、真相を伝えて、更に多くの衆生を救い済度します。

  また、目下、修煉者の「睡魔」も必ず取り除かなければなりません。「眠い」も一種の魔です、それはいつも私達をはっきりと目覚めさせず、学法が出来ないように、大法弟子がやるべき大法の事をやる時間を少なくしていると私は悟りました。

  15年来、尊師の済度の大恩と洪大な慈悲は、大法の修煉者だけが最もはっきりと理解し感じています!

 2009年12月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/11/30/213519.html

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