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発正念に厳粛に対処すべき


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、同修Aさんがジューサーを買ったので、同修のBさんとCさんを家に招き、ジュースを作って楽しみました。みんなは搾りたてのジュースを飲みながら、おしゃべりをしました。BさんとCさんが帰ろうとした時、Bさんはジューサーがとても便利だと感心し、果物を絞って持って帰りたいとAさんに頼みました。しかし、さっきまで動いていたジューサーがどんなにしても動かなくなりました。Bさんはジューサーが動くように「発正念」しようと提案しました。しばらく「発正念」しましたが、ジューサーは依然として動こうとしません。そこで、修理してもらおうと店に出したところ、店で電源をつなぐと、なんと動き出したのです。

 ここで多くの同修はおかしくて笑ってしまうかもれませんが、これは本当にあった出来事です。私の周囲にも本当にこのようなことをする同修がいます。ちょっとした頭痛や熱、下痢などがあると直ちに「発正念」し、子供が発熱して咳が出ると、師父に頼み「発正念」します。また子供が高校(または大学)受験する時、会場の外であるいは家で「発正念」して、師父に助けを求めたりします。子供が自分の能力以上の高得点を取り、理想の大学に合格するよう強く望みます。ある家では物がなくなった時や、ブレーカーが故障した時でさえ「発正念」します。同修の家の老人や連れ合い(常人)が重病や危篤状態に陥った時も、ほかの同修が慌てて来て「発正念」し、「行かせてはならない、死んではならない」と念じます。考えてみてください。このような「発正念」は正しいのでしょうか?

 発正念は師父が説かれた法です。他の空間の邪悪を取り除き、衆生を救うためのものです。師父が正法時期の大法弟子を円満成就に導くために、私たちに要求された三つのことの中の一つです。こんなに神聖で大事な行いをどうして気軽に用いるのでしょうか?

 もし発正念を何かを求めるために、あるいは何かの問題を解決するために用いるならば、その「発正念」の「念」は正しい念ではなく、ましてや発正念と言えるのでしょうか?

 このように発正念している同修は、師父の発正念に関する説法を多く学び、法理をはっきりと理解し、厳粛に対処するよう望みます。

 個人の認識ですので、不適切なところはご指摘をお願いします。

  2009年12月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/10/27/211150.html

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