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肝心な一念


文/中国延辺の大法弟子

(明慧日本)尊師は『転法輪』の中で「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」と説かれました。私は尊師のこの説法に対して深く体得しました。

 1999年に中共が大法と大法弟子に対して悪辣な迫害を開始した時、私は田舎に住んでおり、都市よりも遠く、情報がなかったため、どうしたらよいのか分かりませんでした。当時、市内の同修との連絡はとりわけ重要でした。私は初めて交流資料を手に入れたとき、資料を届けることが私の担当かもしれない、と同修は言いました。

 恐らくこの一念のため、私は本当に現地の資料の届け役になりました。資料がたまに中断したこともありますが、しばらくすれば新しい資料の入手先が出てきました。私達はまるで離散した子供が家族や家を見つけたかのようでした。特に、明慧ネットのこの交流プラットフォームを通して、全世界の大法弟子と交流でき、共に尊師の教戒を聞けますので、自分の修煉の道を正しく歩んで、尊師の慈悲なる済度に背かずに、自分の使命を達成させることができます。

 恐らく私のその一念が、修煉者に対する異なる次元の要求に合ったのかも知れませんので、尊師が私にこのような修煉の道を按排してくださいました。

 資料拠点が広く発展するにつれて、私の田舎では小さな資料拠点を作るよう、そして同修が応援してくれると、都市の同修は何度も私を励ましてくれました。しかし、自分の恐れる心や利己心、自分が重要な資料の届け役だ思い込んでいて、それに邪悪に迫害された時、かつて妥協したこともあって、自分が資料拠点を作るのは無理ではないかとあれこれ恐れていました。懸念していたのは全部自分のことでした。それで、ずっと待っており、頼っており、求めていました。実は、これはすでに大法弟子の正念ではなくなっています。正念がなければ、正しい行いもできないはずです。今日に至って、ここの人を救う環境は依然として切り開いておらず、本当に私のこれらの執着心と関係があります!

 2008年後半、資料の入手は突然中断されました。どうしよう? どうしよう? この時、私はやっと目が覚めました。私はまだ大法弟子なのでしょうか? 尊師は私達に無私で、他人の事を先にし、自分の事を後回しにするような正覚(しょうがく)に修められるように要求されているのに、私は自分の事しか考えておらず、常人と変わりません。結局、旧勢力が手配した道を歩んだではないのか。旧勢力は人を滅ぼそうとしているのではないのか。資料拠点の同修の生活があんなに清貧で、忙しくて、心は衆生を思っています。年寄りで、毎日畑仕事をしている同修も資料を作る達人になっているのに、私はなぜできないのでしょうか? 私は自分のことしか考えていないからです。

 今回の資料の中断は、旧勢力の迫害でも、尊師の教示でも、私は必ず家庭の資料拠点を開設すると決意しました。ちょうど子供がパソコンを学びたいので、私はパソコンを買おうと夫に相談したら、夫は喜んで賛成してくれたので、私は少しびっくりしました。

 都市や現地の同修の助けによって、全国各地に花が次々咲くように資料拠点が設置される中で、また1つの小さな「花」が誕生しました! もちろん、尊師のたくさんのご加護や同修たちのたくさんの心血を注ぎ込んでいます!

 修煉者の一念として、特に法を正す時期の大法弟子の一念は、尊師が按排してくださった道を歩むのか、それとも旧勢力が決めた道を歩むのかが決め手となりますので、くれぐれも自分の後天的な一念で自分を人の殻の中に閉じ込めてはなりません。それは千年も待っている機会を失うことになります!

 個人の悟りですので、妥当でない所があれば、慈悲にご叱正お願いします。

 2009年12月18日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/12/12/214108.html

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