■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/12/21/mh231292.html 



内に向けて探し、執着心を取り除く

文/寧夏回族自治区の大法弟子

(明慧日本)最近、同修達と交流した際、私は同修である従姉と言い争ったことを皆さんに話しました。するとある同修が「どんなことも偶然ではなく、相手の行いは自分の鏡となり、自分の行いあるいは様々な執着心を映してくれるはずだ」と教えてくれました。

 帰宅後、私は内に向けてよく自分の不足を探しました。そして夫にも一緒に探してくれるよう頼み、自分が物質的な利益に執着しすぎたせいで、従姉と物質利益において言い争いになったのではないかという結論に達しました。しかしその日の従姉は、あまりにも私に暴言を吐いたため、私は彼女を憎むようになりました。しばらく経つと、法に照らして、相手とのわだかまりを無くすよう努力すべきだと思い、自ら進んで2回ほど従姉と交流し隔たりを埋めようとしました。しかし、学法が良くできていなかったため、法理において深く理解できておらず、内に向かって探すことができず、いつも相手の不足を探していました。「あなたは私より修煉期間が長いのに、なぜ約束を守らず、金銭に強くとらわれ、私の気持ちを無視して、他人にやたら指図し、命令口調でものを言って他人を傷付け、自分より上だと思う人にしか礼を払わないのか? それで私はあなたを尊敬することができるだろうか? 大声で暴言を吐き、自己を律することができず、大法弟子のイメージを傷つけている」などと考えていました。要するに、不満と憎しみが込められ、私は常人と何の違いもなかったのです。その後、グループ学法で同修と交流をしたことで、私は自分の不足な部分を見出すことができました。

 内に向けて探すということは、自分自身の強い執着心を探し出すためだと認識することができました。罵られ傷つけられたプライドのために言い争うのは、名誉への執着があったからです。また、手先の利益を求めているのは利益への執着を放棄してできていないからです。大法の仕事をして、同修からほめてもらえなかった時に、憎むようになるのは情があるからだと悟りました。名・利・情の三つを同時に執着すれば、魔になるのではありませんか。やっと自分の執着の根本的な原因を見つけ出すことができました。

 日常生活から見ると、私は良く行っているように思えますが、それは常人の角度から見た場合です。修煉の角度から見れば、自分にはまだ強い嫉妬心・歓喜心・顕示心などがあることが分かりました。内に向かって探すとき、上辺だけでなく、根本的な原因を探し出す必要があります。そうすれば、根本的な執着を見つけることができると思います。自分の執着がこれほど強いものだと分かった以上、このままではいけないと考え、これから絶えず法に照らしながら内に向かって探し、グループ学法の環境を維持していく事が最も重要なことだと思いました。

 師父は『転法輪』の中で「トラブルが起きる時、あらかじめあなたに知らせることはありません。何もかもあなたに知らせたら、何を修煉するというのですか? 効果もなくなります」とおっしゃっています。ある日、わたしは信号を渡るとき、走ってきた車のドライバーが歩行者用の青信号が点滅しているのを見て、減速せずに走ってきました。そのため車にひかれてしまい、心臓の血を誰かに奪われたように苦しくなりました。しかし瞬時に、私は「自分は常人ではない。大法弟子なので、師父の法身が見守ってくれており、いかなる者も私を傷つけることができないのだ」と思いました。すると、血液の流れが元に戻り、右腕にすり傷を負ったただけ済みました。それを見ていた人は病院に行って検査を受けたほうがいいと言い、ドライバーも私を支えて病院に連れて行こうとしたが、私は「大丈夫です。病院に行く必要はありません。あなたもわざと私をひこうとしたわけではないと分かっているので、気になさらないでください!」と言いました。そして、その後ドライバーに、法輪功が迫害されている真相を伝えると、ドライバーは絶えずうなずきながら「法輪功を修煉している人はやっぱり違いますね」と言いました。私は彼に「法輪大法は素晴らしい。真善忍は素晴らしい」をよく念じておけば、身の安全を保障できると教えてあげました。ドライバーは喜んでそれを聞いてくれました。

 事故が起きたとき、『転法輪』の中で、師父が太原市で功法伝授の講義を開いたときに、ある50代の修煉者が夫と講義に向う途中車に引きずられたという段落の法を思い出しました。彼女はこう言いました。「先生、わたしは今法輪大法を学んでいます。もし法輪大法を学んでいなければ、わたしは、今日のことにこんなふうに対処することができなかったに違いありません」、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」 法の力が私の身に現れたとは信じられませんでしたが、突然きたこの関門に対して、私は法に照らして行うことができて、とても嬉しいと感じました。

 こんなに書いても、まだ書き足りません。いくら述べても、師父と大法に対して、感謝してもしきれない気持ちです。修煉において精進し、三つのことをしっかり行ってこそ、正法時期の大法弟子の称号にふさわしいと思います。

 2009年12月21日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/12/19/214705.html

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