■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/12/23/mh254937.html 



同修の逝去から修煉の厳粛性を見る(二)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)邪悪が手を伸ばし始めました。彼女の家族は強硬な態度で、彼女に病院へ行くよう求めました。当時、彼女は家族が怒らないように一回だけ病院に行き、すぐ戻ってこようと思いました。病院へ行くと、医者は彼女を騙して、「肺の検査をし、汚れたものを取り出す」と言いました。彼女にも、常人の方法でも良いから苦痛を和らげたいという考えが生じました。しかし結果として、医者は彼女の肺の一部を切り出し、化学検査をしようしたのですが、大出血をもたらしました。仕方なく薬で出血を止め、その治療をしないといけなくなり、状況はますます悪くなりました。しかし彼女はおかしいと感じ、家に戻りたいと言いました。彼女の家族が同意しなかったため、彼女は断食で抗議し、最終的に家に戻ることができました。しかし、帰宅して、数日後に亡くなりました。亡くなるとき、彼女はまだ意識がはっきりとしていて、息子をベッドのそばに呼んできて「法輪大法はすばらしい」と念じさせてから、去って行きました。彼女の主人は「実際、彼女の天寿はとっくに終っていた。師父が再三、彼女を悟らたにも関わらず、彼女は機会をつかむことができなかった」と言いました。

 私はこれらのことを聞いて、何日も心が重く感じました。この同修は実はとても孤独でした。1999年以降、みな彼女を疑い、彼女と本当に交流できる人はとても少なかったのです。たまに同修が彼女のもとを訪れても、彼女は心を完全に開いて交流できず、常に何か隠しているところがありました。彼女に病気の状態が現れてからすでに1年近く経っていましたが、彼女は他の同修にそれを話したことがありませんでした。夫婦とも修煉者でしたが、この関係と環境を大事にすることができず、チャンスを失いました。彼女の夫は、彼女と関係が親密すぎて、トラブルが頻繁に起き、麻痺していました。彼が心性をとてもよく守っているという同修もいますが、私はそうは思いません。なぜなら、私たちは個人修煉の段階ではなく、それにたとえ彼が本当によくできていたら、相手は再三彼の不足を指摘することはないはずです。また、修煉してから、相手を同修と見なすことができず、まだ過去の夫婦の関係にとどまっていて、このような実質的に変わってない心は、情により生じたイライラする状態・恨み・尊敬しない心として、大きな執着を生み、着実に修煉しない現れとなりました。

 ここで同修と交流したいのですが、一人の修煉者として、大法弟子として、私たちは誰に対しても良いはずです。慈悲をもって衆生に対し、いかなる環境でも良く行うべきです。人を救うために、私たちはさらに心を広くし、寛容の心を持って人に接するべきです。私たちの家族も衆生の一員でありますが、このケースでは相手は偉大なる修煉者であり、法を正す時期の大法弟子で、未来の佛・道・神です! 私たちはどうして彼を尊敬せず、憎しみを持つことができるでしょうか? 多くの人は夫婦とも同修である家庭をとても羨ましく思っています。なぜなら互いに切磋琢磨し、協力し、修煉環境を切り開く必要がないからです。なのに、どうして私たちはこれらを大事にしないのでしょうか? 常人の理でも夫婦の間は互いに尊敬し合うべきなのに、まさに私たちはこれほど長く修煉したのに、常人にも至らないのでしょうか? 最も重要なのはいわゆる天寿になったということです。それは誰が按配したのでしょうか? それは誰の天寿なのでしょうか? 私たちは性命双修の功法であり、私たちは法を正す時期の大法弟子で、師に随って法を正す使命をまだやり遂げてないのに、どうして人間世界を離れることができるでしょうか? まさに同修の言われたとおり、「私は生死を放下することができます。しかし私は死んではいけません」なので、もちろん生死を放下できないことは別問題となります。 

 またA同修は何回もこう言いました。「あなたたちが修煉して成就できるなら、私はたとえ下地になってもよい」と。この言葉は表面的には自分が無私で、求めることがないように見られますが、実際はまったく理にかなっていないのです。師父は説法の中で、「修煉するその人が功を得る」「失わないものは得られず」などの法理をはっきりと説かれました。それなら、この同修はまた誰の下地になるのでしょうか? しかもこれは典型的な「中士(ちゅうし)、道(どう)を聞けば、存(あ)るが若(ごと)く、亡(なき)が若(ごと)し」の現れです。法に対する確固たる意志がなく、修煉に対して自信が足りず、師父に対して、大法に対して自信が足りない現れです。師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるもの」だとおっしゃったことがあります。今日の結果は昨日の反映であり、自分の当初の考えや発した願と大きな繋がりがあります。大法を大事にせず、自分に対して、衆生に対して無責任であれば、旧勢力が虎視眈々としない理由があるでしょうか?

 B同修は70歳を過ぎていて、表面的には三つのことをやっていますが、常に「私の足には持病がある。私の修煉時間は足りないかもしれない」と言っていました。後になって彼女の子供たちが、亡くなったお父さんのために碑を立てる時「ついでに彼女の名前も刻むのはどうか」と聞いたとき、彼女はなんとそれに同意しました。常人の場合、亡くなった人と生きている人の字の色は異なります。事後まもなくして、B同修は突然亡くなりました。生死を放下できず、病気のことを放下できず、常人の生・老・病・死を認め、自分を超常的な人と見なすことができないと、常人の理や規律があなたに作用するようになるのではありませんか? 

 (続く)

 2009年12月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/16/214385.html

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