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「真・善・忍」に同化した一粒子となる(二)


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)

 二、内に向けて探し、己を修める

 私は同修との間に大きなトラブルと意見の食い違いはなかったのですが、考えることは多少違います。よく見たのは、ある2人の同修の葛藤でした。甲同修は数回にわたって私に訴えました。「乙同修はいつも顕示心が強く、誰であろうと話の最中に割り込んで、自分のことを山ほど話し、顕示したりして、話の中には他人が駄目で、自分しかできないという調子が何年も続いています。彼女に注意してあげても改めようとしません」と話し、私に話をつけてほしいと頼みました。

 実は以前から、乙同修の行いは私の目にも留まっていましたので、時を見て、乙同修に注意したことがあります。ただ、私は甲同修のように、乙同修の問題を重く見なかったので、注意するとき、乙同修の行いについて自分の意見を述べただけでした。そうすると、乙同修は意見を受け入れてくれました。しかも、乙同修は自分が細かいことを気にしないタイプで、言ったこともすぐ忘れ、心にとめないのですが、甲同修はいつも他人の欠点を重く捉え、昔のことまで鮮明に覚えており、そのため、甲同修に従いたくなく、心にわだかまりができたと話してくれました。

 それにしても、彼女たちはいつも離れられないようで、何かがあったら、お互いにまず相手のことを考えました。2人の間の問題はお互いに修煉の要素が含まれていると思うのですが、私も知った以上、きっと私に悟らせるものがあると思いました。それで、心を静め、内に向かって探してみると、自分に深く隠れている顕示心、闘争心、恐怖心、嫉妬心と様々な気がかりがあることが分かりました。さらに続けて探すと、2人に存在している問題は私にもありました。なぜ、彼女たちが私に指摘してくれなかったのでしょう? 私はよく助けてあげたから、それで、私に言えなかったのでしょうか? 他の同修からの態度もそうでした。これらの執着は前から自分も微かに感じていましたが、隠れていました。執着しているのに言い訳をつけて、同修をごまかして自分も騙しました。このようなことは随時に見られ、深く掘らなければ、隠された執着は実に怖いものです。

 家族の理不尽な要求に対し、明らかに自分が損をしているのに、自分の非を探さなければなりません。最初は涙をのんで探し、おそらく前世の因縁関係のゆえに起きたことだと思い、難儀を前にしてどうする事もできませんでした。

 今は、修煉者として世のいかなることにも執着せず、ただ常人のすべてを放棄するだけだと分かりました。しかも、常人の理を守るようにやらなければなりません。常人の中で修煉すると、自身が執着を持っていなければ、難儀がやってきません。往々にしてやり方に固持し、心がもやもやしているときは、背後に嫉妬心、私心、顕示心、虚栄心、闘争心、変異した観念と情があるに違いがありません。これらの執着は表面では簡単に見えず、奥深く隠されて包まれています。今の私は分かったように見えるのですが、実践していくと、時々同じことを繰り返しています。

 例えば、家族の情を捨てられないと、いつまでも難儀の中に陥ります。家族のいかなる人にも、常人の情を持っていれば、わずらわされて正法時期の大法弟子としてやるべきことができなくなります。

 私は11年も修煉してきましたが、正々堂々して大法の異なる次元の要求通りにできなかった原因が、今やっと分かりました。それは家族に情をもっており、救うべき衆生としてみることができませんでした。夫なら夫としての責任を尽くすべきだと、夫に高いレベルの道徳を求めました。私は母親、娘、嫁、姉などの役を持っており、そのため、必死に責任を尽くしました。多くの場合、疲れ果てたのですが、その訳を悟れませんでした。自分がより高く大きな責任を背負っていることを分かっていながら、多くの貴重な時間を無駄にしてしまいました。

 難儀に直面しているとき、心の中で『道法』の経文を繰り返し暗唱し、法理は私に難儀を次から次へ乗り越えさせ、それぞれの執着心も取り除くことができました。内に向かって探すと、自分がこっちで待つことや頼る考えがなくても、あちらに依頼心があることが分かりました。こういうとき、『精進要旨・警言』を絶えず暗唱すると、弟子として着実に修煉していく中で、多くの困難を乗り越える必要があると悟りました。人心、情を取り除かなければなりません。すぐに心の中でこのように師父にお願いしました。「弟子は情を放棄したいので、師父と正神のご加護をお願いいたします! 弟子は必ずよくやります。きっとよくやれると信じています」 自分の執着心を見つけ、そして、取り除いたとき、師父は瞬時に硬い石のような執着を取り除いてくださいました。まさに「修は己にありて、功は師にあり」の通りでした。

 難儀に遭ったとき、執着心を早く放棄すればするほど、修煉の進みが早いわけで、肝心なのは、内に向けて探し、着実に己を修めることだと思います。今から自己を分析します。

 何かをやろうとするとき、表向きは他人のためですが、実は内心で自身のために考えており、自分の思ったことと違った結果が出た場合、不平を言い、平常心を失い、憤慨までして、ときには心の奥に隠したまま表に表しません。

 やっていることは他人のためだと言うのに、前提として、自分が損を被らず、あるいは相手の事を認め、内心の平衡を覚えてから同意したりして、言い換えれば、相手に気に入られたらいいので、そうではないときは好感を持てず、相手にしません。

 変異した観念はいつも人の表面から間違った感性の認識を持ち、付き合う前に、すでに相手に様々な結論を下しています。これはすべて変異した観念が促した偽りの現象に過ぎません。

 他人にしたことは報いを求めないといいながら、いったん相手が自分の想像と違った行動をとったとき、不満、傷心、嫉妬心などが湧いてきます。

 自分の虚栄心などが満足したとき、有頂天になることも感じました。

 自我・私心から脱出し、真に「無我無私」になり、責任を逃れようと一切考えずに、正々堂々して正法時期の大法弟子のやるべきことをしっかりと行い、真善忍に同化した一つの粒子になろうと決心しました。

 (続く)

 (明慧ネット第6回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 2009年12月25日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/11/20/212813.html

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