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「真・善・忍」に同化した一粒子となる(三)


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)

  三、着実に修煉する中で心性を向上させる

 法をたえず学ぶにつれて、大法の理は私の変異した観念を取り除いてくれました。初めて法を学ぶとき、これはとても素晴らしい本だと思い、今まで読んだことがなく、人に道徳を重んじさせ、良い人間にさせる本だと考えました。繰り返して読むと、これは普通の本ではなく、修煉の経文ではありませんか、と気付きました。以後、私は人生における考えが大きく変わりました。以前にあった不可解なことや戸惑いは、だんだんと理解できるようになり、人間が生まれてきたのはただ人間になるためではなく、返本帰真に向かって修煉するためだと悟りました。40年も生きて、3日毎に病院に通い、薬を飲み、注射をしても病気が治らなかった私は、法輪功を修煉してから、1カ月しか経たないのに、すっかり健康になりました。全く不思議に感じました。

 後になって治ったわけが分かりました。真に修煉すると、師父の法身が弟子の身体を浄化してくださり、常人の各々の環境において、いつも他人を思い、トラブルが起きると自分の非を探し、辛い思いを受けても、自分の非を探し続け、自分が真善忍に従っていないところがあったのではないかと考え、自分の不足を認識できたら(自分側に問題がなければ、トラブルはないはず)、トラブルや病業がすぐ消えました。

 それ以来、私は病業について新たに認識し、師父の言われたことはすべて真理だと身を持って体得しました。後に数回の大きな病業が現れましたが、師父を固く信じて、簡単に乗り越えました。

 夏のある日、私は朝から晩まで、トイレに29回通いましたが、身体はだるく感じませんでした。午後3、4時になると雨が上がり、夫が「天気がいいので、散歩でも行こうか?」と誘ってくれたのですが、私は「数分毎にトイレに行くのに、出かけて大丈夫だろうか?」と内心考えました。しかし、すぐに「外だとトイレに行かなければいい」と考え直しました。そうすると、1時間も歩き廻ったのに、トイレに行きませんでした。しかし、家に入った途端、また、出かける前の調子に戻り、トイレに頻繁に出入りしました。

 またある日、頭痛で頭が破裂しそうでした。数年前に頭痛が数回あったのですが、そのような痛さではありませんでした。痛みで、夜眠れなかったのですが、心に留めませんでした。翌日になると、鼻から血が出て糸状のようなものが垂れており、それから、頭痛がすぐ治りました。師父が私の頭から大病を取り除いてくださったと悟りました。

 2年前から、胃の調子がずっと悪く、触ってみたら拳ぐらいの固いものがあり、吐き気も続いていました。ある日、うどんを食べ終えたら、思わず吐き出しました。最初は、胃酸を吐き出し、続いて真っ黒い粘々とした血の塊を吐き出した後、胃の調子は正常に戻りました。白いうどんを食べて、黒いものを吐き出したのはその次元にあわせた病業の現れだと考え、病気と思わなかったため、後になって、何のこともなかったのです。真の修煉者として、病気になることはありえないので、病業について正しい認識を持たなければなりません。修煉過程において体に多くの超常現象が現れました。

 『共産党について九つの論評』が発表され、本の最初から最後まで読み終えたその日の夜に、全身に激痛が走り、向きを変えることも、腕を動かすことさえできませんでした。絶対に大丈夫だという一念がはっきりしており、翌日の朝になると、思った通り何もなかったようにいつもの生活に戻りました。後に師父の経文を勉強してから、これは共産党文化の要素を身体から除去していく現象だということが分かりました。この場を借りて、同修達に提言します。皆さんの中で、もし『共産党についての九つの論評』と『共産党文化を解体する』を読んだことがない人がいれば、必ず一度読んでください。読むことは、共産党文化の要素を除去していくことになります。中国人は長年共産党文化の中で生きてきたので、多くの変異した観念を形成し、考え方などすべてが正常ではなく、海外の人々に溶け込むことが難しくなっています。

 (続く)

 (明慧ネット第6回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 2009年12月26日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/11/20/212813.html

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