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情の難関を突破する体験と教訓


文/遼寧省の大法弟子・初塵

(明慧日本)私は1997年に大法を修煉し始めた古い弟子ですが、長い間精進していませんでした。私はよく明慧ネットの同修が書いた文章を読んで、それらの文章に本当に理性的な認識が満ち、自分と比べてみると自分が修煉の道で遅れていると分かりました。

 ちょうど先日、とても辛い情の難関を乗り越えました。

 ここでまず言っておきたいのは、みなさんに明慧ネットの文章を重視して頂きたいことです。師父は何度も明慧ネットの重要性、および大法弟子が修煉体験を交流することの重要性を強調しています。私の周りには大法弟子がおらず、ずっと1人で修煉してきました。そして、今まで修煉体験の交流を重視しなかったため、多くの回り道を歩んできました。

 小学校から博士までの勉強はおおむね順風満帆で、私は幼い頃から、自分が同年代の人より頭が良いと、とてもうぬぼれていました。明慧ネットにアクセスした最初の頃、見た文章はほとんど金銭・名利・人間関係に関する討論だったので、レベルが低いと思い、その後ずっと長い間、明慧ネットにアクセスしませんでした。交流の必要がない、自分の努力で修煉すれば充分だと思いました。しかし、長い間修煉の道にたくさんの不必要な苦しみ、特に「情」の妨害を経験し、三つのことを行うことが大いに妨害されました。今思うと、たくさん後悔を残したとも言えます。「情」の妨害を乗り越えられたのは、師父が慈悲と大法の力、もう一つ重要な要素は同修の体得をたくさん読んだからです。特に「修心断慾」の小冊子に大いに助けられました。

 私がいる研究室に、キリスト教を信仰する女性の後輩がいます。以前、あまり付き合いがなかったのですが、2009年の前半から、突然彼女はよく雑談などをしてくるようになりました。普段、顔を合わせる時もとても親切に挨拶をしてきます。その時、ちょうど私は研究室の同級生に真相を伝えようとして、これはまさに機会だと思いました。彼女の態度が多少熱すぎると思う時もありますが、自分はとっくに「情」に対する執着を放下したので、彼女と適度な距離を保てると信じました。

 ある日、食事に誘われました。彼女は私に好感を持っていると知っています。二人きりの食事はデートのようになってしまうと配慮して、断ろうとしましたが、これは真相を伝える機会と思って、食事に行きました。

 その日、真相を全然伝えられませんでした。私は三退の話題を切り出そうとしたら、いつも彼女に断ち切られました。師父は修煉に偶然な事はないとおっしゃいました。私もその時、何かおかしいと思いましたが、原因を悟っていませんでした。3回目の食事にようやく彼女に三退を伝えました。彼女はキリスト教を信仰しているので、神が中国共産党を滅ぼす、三退などの道理を理解しやすいと思いましたが、なんと彼女にきっぱりと断られました。内に向けて探して、それから何度も彼女に三退を勧めましたが、依然として駄目でした。私自身、だんだん彼女のことを好きになったことに気付きませんでした。

 彼女と一緒にいる時、いつも常人世界の話題を興味津々と話して、非常に気が合うと感じました。この執着に気づいた時は自分に注意したことがありますが、邪悪に隙に乗じられ、「情」に対する執着が絶えず拡大されて、抑えきれなくなっていました。とうとう、いつでも彼女と一緒にいたくなり、研究室に入ったら、知らず知らずに彼女の姿を探したりするまでになりました。実は、研究室の他の人にとって彼女はそれほど魅力的でもないのですが、当時の私は自力で抜け出せないほど邪悪に妨害されて、修煉をやめて彼女と常人のいわゆる幸せな生活を送るとまで考えていました。

 あの時は彼女に対する情を放下したくて放下できず、本当に苦しかったのです。しかし、その時でも毎日の学法と発正念を続けていました。一日何回も多めに正念を発したことがありました。それから順調に彼女に真相を伝えて三退をしてもらいました。

 私が正念を保つことができれば、彼女との事はここまでで終わるはずなのですが、修煉とは、師父がおっしゃった「修して執着を一つも漏らすこと無きを得れば」のように、少しの執着心が残っても駄目です。三退をした後、彼女は突然私にとてもよそよそしくなりました。最初は少し戸惑いましたが、2〜3日たったらすぐ慣れました。しかしその時、彼女は研究室のある先輩と急接近して、よく話したり笑ったりして、ボディタッチもたまにしました。私の心はドンと、どん底に落ちたように苦しくなり彼女に裏切られた感じがしました。彼女を奪い取ろうとする衝動は、絶対修煉者のあるべき気持ちではないと分かりました。それから学法を通じて、とても長い期間を費やしてその衝動を放下しました。その過程に、そこまで発見できなくてとても深く隠れた執着心を掘り出すことができました。例えば嫉妬心・独占欲・負けん気・色欲・寂しがり慰めを求めたい気持ちなどです。

 これに気づいた時、私はとても驚きました。これほど長く修煉してきたのに、意外にもまだこんなに多くの執着が存在しているとは。内に向けて探すというのは本当に空論ではなくて、真面目にやり遂げてはじめて修煉と言えるのです。9月末、「情」以外の執着を少しずつ放下しましたが、「情」に駆使されて、中秋の祝日の何日間に、たまに彼女に携帯電話でメールを送ったことから、1日に何回もメールを送るようになりました。彼女に「好きです」と告白までしました。彼女は、「一緒になりたいなら、あなたもキリスト教に帰依してください」と言ってきました。私は、法輪大法を放棄すると思ったことはないのですが、大法を信じると同時にキリスト教も信仰して、とりあえずは彼女と一緒に教会に行こうかとか思い、彼女の機嫌を取ろうとしました。はっきり言うと、私の思ったことは、常人の執着を保ちながら大法との縁を切りたくない矛盾した心理でした。

 「不二法門」の厳粛を知っているため、最終的に私は彼女に帰依しないと明言しました。しかし、彼女と一緒になりたいために、私はよく常人の「情」で彼女を感動させようとしました。ある日、彼女と仲良くなった先輩の送別会をするため、3人で一緒に食事することを設定しました。結局、食事中は彼女と先輩がずっと親密に話をし、私はその光景を見て、そこから飛び出したいほど苦しかったのです。家に帰ったら、常人としても軽はずみと思うような彼女を、私はどうしてずっと忘れられないのですか、どうしてこのような結果にならないと目が覚めないのですか、とずっと反省しました。

 その夜、ほぼ一晩寝ずに深く自分の執着の源を掘ってみました。源は、自分がずっと完全に放下できなかった「情」であることが分かりました。普通の女の子に興味はありませんが、自分の好みの女の子には、私はやはり心が動きます。また、自分は異性と接触する時の感情をよく把握できず、異性に好かれた時に嬉しくなって、妄想してしまう時もあります。行動まではしていませんが、やはり旧勢力に隙に乗じられ、ますます正念から離れて、魔難が一層大きくなったのです。彼女の行為を見ると、鏡を見るように、自分の心底の本当の考えがすべて映っています。きちんと考えると、師父がこのような方法で、まだたくさん「情」から派生した執着があることを認識させてくれました。一方、彼女との付き合いを通じて「情」に対する執着をたくさん放下したと思いました。

 全ての過程を振り返って思うと、師父が『洪吟・その心志を苦しめる』におっしゃったように、まさしく「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽と成す 身を労するを苦と算えず 心を修するは最も過ぎ難し 関という関はすべて闖えるべし いたる処すべて是れ魔 百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る 世上の苦に耐え得れば 世を出づれば是佛陀」です。考え直した結果、朝方に彼女に携帯メールで「今までの関係を断ち切り、今後普通の同級生として付き合おう」と、正式に打ち明けました。メールを出した時にほっとしました。最終的に執着を放下できました。

 また、たくさんの同修が体験文で書いたように、私も若い大法弟子に言っておきたいことがあります。現段階で常人あるいは新しい修煉者と恋愛もしくは結婚することを、極力しないほうが良いと思います。今の世間の人は本当に非常に変異しています。キリスト教を信仰するその女性の後輩を例にすると、彼女が神を信じる目的は、神に彼女の願望を満たしてほしいためです。彼女は異性に対する軽はずみな言動を、宗教を信仰してからの本性の現れだと解釈しています。彼女の軽はずみさをずっと「素朴さ」が原因だと思っていましたが、彼女の話を聞いたら、純情な外見の裏にこんな深い「計算」があったことをはじめて見抜けました。それも彼女と別れる決心を下した一つの原因となりました。法輪大法の修煉者からすると、これは人間としての最低限の基準にも達していないことです。宗教の信仰を持つ人すらこのようなので、宗教を信仰しない常人はどんなに堕ちているかは言うまでもないです。

 個人の些細な体得なので、不適切なところは、同修の慈悲なるご指摘を願います。

 2010年1月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/14/211541.html

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