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業を滅する現象を微笑んで耐える


文/中国の大法弟子

(明慧日本)自分の身体に現れた業を滅する(苦をなめることで業という黒い物質を転化すること)現象について、私がどのように対応したかを皆さんと分かち合いたいと思います。

 修煉を始めてから今まで、私の身体にはずっと業を滅する現象が現れました。どれほど「深刻な状態」に見えても、いつも3日も続かず、「三つのこと」にも支障を来たしませんでした。業力が消去される度に、私は業を滅することについてより深く認識することができました。身体の具合が悪いときに、私は発正念をしていわゆる旧勢力の妨害を取り除くことをしません。なぜかというと、旧勢力の「黒い手」は次元がとても低く、きわめて愚かなもので、動物にさえ及ばない「無生の門」に入れられるに違いないからです。私を見て、それは早くしないと逃げることすら間に合わなくなるのに、どうやって私の身体に「病業」を作るのでしょうか?

 また、毎回身体に「業を滅する現象」が現れる時は、かえって私は本当に「三つのこと」をしっかりやっている時でした。修煉者が悟りを開く前は、身体にいずれも業力が存在しており、もし業力がなければ、修煉の要素さえ存在しないのです。旧宇宙には相生相克の理があるため、「三つのこと」がよくできれば次元が高くなり、功が伸び、業力も消されるため、身体のほう(もしくは人間関係に現れるかもしれません)にほんの少しの苦痛が現れるのは、何も不思議はないのです。

 2週間前のある日、私は突然全身がかゆくなり、掻けば掻くほどかゆくなって、血が出るまで掻いてもまだかゆいのです。じつは「かゆみ」は本当の私ではなくて、私の手は私の主元神にコントロールされています。今、私の手はどうしてその「かゆみ」にコントロールされて、身体を掻くのか、と考えました。私はかゆみを無視して、いつもどおりに仕事をしました。いくらかゆくても、私は決して手で掻かないようにしました。

 毎日仕事が終って帰宅する途中に、私は会った人に真相を伝えたり、真相のディスクを配ったりしました。毎晩、家で学法する時も明慧ネットを見る時も、その「かゆみ」はまだまだ強かったのです。しかし、私は何も思わずにやるべきことをやり、「かゆい」ところを掻かないように頑張りました。しかし、寝る時には主意識がもうろうとして、手は身体中を掻きました。翌朝、目が覚めて見ると、頭部以外に、ほぼ全身の皮膚が傷つき、パジャマに血痕も付いていたのです。皮膚の至る所に「乾癬(かんせん)」に似たような症状が現れて、とても「恐ろしかった」のです。かゆみは首にまできました。

 修煉者は何か問題に遭ったら、常人の観念で考えてはいけません。私は、かゆみを良い事だと思いました。私の功が表面の身体へ突破して、表面の身体が高エネルギー物質に替えられていく時に、しっかり修められていない表面の身体の持つ業力を外へ出さないといけないので、それは一個一個の毛穴から出ている、と思っています。私はまたその「かゆみ」の無力さを見抜いています。それは睡眠の時だけ私の手をコントロールして、「かゆい」ところを掻かせ、私の身体の表面に「乾癬」の現象を作り出しています。

 一方、私の主意識がはっきりしている時、手は決してそれにコントロールされて、身体を掻いたりしません。私はいつものとおりに仕事をして生活しました。師父はこうおっしゃいました。「このことを皆さんに言っておきたいのですが、どんなに『病気』で苦しいと感じていても必ず来てください。法は得難いものです」(『転法輪』) 師父は新しい学習者にさえこう要求しておられるのに、私は10数年修煉してきた古い弟子として、身体に何か「病状」が現れたからといって、家で横になるのですか? 仕事も休むのですか? 「三つのこと」もしないのですか? そうすることは自分に対する要求が低すぎるのではありませんか?

 ある日の午後、私は仕事をしていた時に、その「かゆみ」が弱くなっていることを感じました。以前、顔以外の全身至る所がすべてかゆかったのですが、今は、たまにどこか1カ所が少しかゆいだけです。手もそのかゆみにコントロールされることが無くなりました。その日の睡眠はとても落ち着いていて、翌朝、目が覚めたらいわゆる「乾癬」の現象が消えていました。皮膚の傷ついたところにはかさぶたができて、「かゆみ」も消えました。さらに何日か経ったら、皮膚は完全に正常に戻りました。

 身体に「業を滅する現象」が現れる時、どれほど痛くても、もしくはかゆくても、私はそれを何も考えずにいつものように「三つのこと」をしっかりと行ってきました。「症状」もいつのまにか消えていました。私が生々世々に作った業力の大半は師父が代わりに引き受けてくださり、ほんの少しを残して、私の心性を高めています。私の心性が高まった時、師父が私の代わりに引き受けてくださった業力と私自身が耐えた業力を、すべて私の功に演化してくださったのです。一方、もし私の身体に「業を滅する現象」が現れる時、「痛み」で起きられなくなって、業力にコントロールされ、仕事と「三つのこと」ができなくなったとします。これは業力を認めたと同じで、自分の心性を常人レベルに置いたことになるのではないでしょうか? 常人は誰もが病気にかかるもので、危険な状態が現れるのも不思議ではありません。

 さらに、身体に何か問題がある時、すぐにそれを旧勢力の迫害だと思うのは、「大法弟子の身体を師父は護っておられる」という基本的なことも信じずに、身体を旧勢力に「看護」してもらうことになるのではないでしょうか? それは実に最も危険なことです。それが旧勢力の迫害だと思う時、自分がそれを求めることに等しく、旧勢力は本当にやって来るのです。修煉者に不純な念が生じると、自分の空間場もこの不純物でいっぱいになるので、旧勢力を消滅させる正念を発しながら、片方で「旧勢力」を造り出しているのです。一時的に身体の苦しみを無くしたとしても、根本的にその関を乗り越えたのではなく、業力は依然として存在しています。将来、業力がもっとひどい形で現れるかもしれません。

 修煉者にとって少しの苦しみは、たいしたことではなく、身体のわずかな苦しみは何でもないのです。それを何とも思わない時に、その苦痛は本当に何でもなくなるのです。師父は、「一人の佛がちょっと手を振るだけで、全人類の病気を取り除くことができます。それは間違いなくできることです」(『転法輪』)とおっしゃいました。もしすべての業力を師父が代わりに引き受けてくださり、自分は少しも苦しみに耐えることをしたくないなら、佛になっても、自分は佛の席に座る資格がないのです。自分自身が生々世々に作った業力さえ消すことができなければ、他の人を救い済度する威徳がどこにあるでしょうか? 他人の業力をどうやって消してあげられますか? 修煉はとても厳粛な事で、修煉者は問題にあった時、自分の考えを正すことがとても重要なのです。

 何回か身体の消業を経験して、私は本当に「苦を楽しみとする」ことの真髄が分かりました。特に、修煉を始めて間もない時に、業を滅する現象が現れる時、師父が私を見守ってくださっていることが分かり、その喜びは言葉で表しがたいものでした。その後、毎回業を滅するたびに(数カ月、あるいは1、2年に1回現れる)、私は法理をより深く悟ることができました。業を滅すると同時に、心性が高まり、功も伸びました。返本帰真の道を歩む私は、帰る家までもう一歩近づいたと分かるので、「苦を楽しみとする」ことができたのです。

  以上は身体の業を滅する現象について、私の少しの体得です。不適切なところは同修のご叱正をお願いします。

  2010年1月5日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/12/3/213714.html

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