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情を放下して初めて慈悲が現れる


文/中国大法弟子

(明慧日本)同修の不足を見つけたら直ちに教えてあげることは、同修の向上のためであり最大の慈悲だと思って、さらにこれを絶対化していました。しかし、このような方法は同修の間に隔たりを作ってしまいました。絶えず法を暗記し、内に向かって探し、明慧ネットの同修の文章を読んで、自分は今の認識を変えるべきだと思いました。

 一、いつも人の良くない部分ばかりを見るのは、慈悲とは言えない

 常人の情は、誰かに良くしてもらったら嬉しく、誰かに嫌がられたら機嫌が悪くなることです。また、誰かが良くやったら喜び、誰かができないと怒り、同修が自分の意見を聞き入れず、同修が変わらないと嬉しくなく、さらにその人を見る度に機嫌が悪くなります。時にはこれこそ同修のためであり、厳しい言葉でなければ分かってくれないと思い込みました。これは人間の情をもって対処しており、慈悲ではありません。

 師父は「実は、法を正す全過程で、ずっとこの最も寛容で慈悲なる方法で行っています。生命の歴史上の過ちを見ていません。」(『各地講法七・2006年カナダ説法』)と説いておられます。それでは、私たちは大法弟子として師父に教えに学び、衆生の過去の過ちを気にせず、恩讐を忘れて常人の応報から脱け出し、情に左右されないようにします。最大な慈悲をもって衆生に接し、同修に接します。もし過去の怨念を忘れず、同修の不足ばかりに執着していれば師父に要求されたことを行っていないことになります。

 差別心から、人の不足を気にして、人の態度、過ち、個人の損得を気にするとしたら、それは良くないことであると私は思います。行動で表すのも良くありません。それだけではなく心に動じた念でも自分の空間場に良くない要素を生みます。これも隔たりになります。表面上、上手く行いましたが、不平に思ったら結果的に相手が受け入れてくれません。どうしてこのような事が生じるのでしょうか。心に思っている事は相手に感じられます。表面上いかに良くても、当然受け入れてくれないのです。

 師父は「大法弟子はどんなことに対しても真正面から取り組むべきです。相手の良くないところを見るのではなく、いつもその人の良いところを見るべきです。実は皆さんご存知でしょうか。当初私が皆さんに大法を伝えていた時、講義中に在席の人から多くの常人の考えが現れてきました。非常に良くない考えを持っている人もいました。しかし、私はそれを全く見なかったのです。私は皆さんの良い一面だけを見ており、それで私は皆さんを済度することができます」(『二〇〇三年旧正月十五日の説法』)とおっしゃいました。

 大法に照らし合わせて、自分が同修の助けをしていると思い込みましたが、実は人の良くない面ばかり気にすると、人の言動を悪い方に思います。時には良くない結論まで出してさらにそれを理由にして人を変えようとします。ほぼすべてのトラブルがこの悪い癖に関係があります。今私は疑心、警戒心、譴責、怨恨、闘争心などの人心をなくしたら自分の空間場がきれいになり、仁愛、寛容、理解、礼譲などがはじめて自分の心に植え付けられました。初めてこれらの素晴らしさを感じました。人の誤解と冷淡を不平に思わなくなり、個人の損得と人情をも気にしなくなりました。私は「忍」の境地を体験しました。常人の顧慮(行き過ぎたり早まったりしないように、周囲の事情などをよく考えに入れること)の下で忍び堪えることは違います。それは、真に自我を放下したあとの大いなる慈悲です。私の心の固い氷山が融け始め、心が初めて優しく、広く明るくなりました。師父は「実は慈悲は巨大なエネルギーであり、正神のエネルギーなのです。慈悲であればあるほどエネルギーが強く、どんな良くないものも解体されます。」(『2009年ワシントンDC国際法会での説法』)と言われ、私はこれを深く体験しました。

 ニ、人情と人間の理をもって修煉に対するべきではない

 師父は「執着のことにいたっては、師父が今日あれこれを取り除くようにと教えれば、これは強制になり、あなたが心から取り除きたいということではありません。時間が長くなっていくうちに、師父がいつも言っていると、あなたは耐えられなくなるとき、不満が生じます。師父がなぜこのようにするのかと思ってしまうのです。自分で法理を通じて認識できるようになったら、あなたの生命にとって、このようにすることのメリットとデメリットが分かるようになります。これこそあなたの本当の向上であり、あなたは本当に執着を取り除くことができるのです。外的の如何なる束縛もあなたの意思からのものではなく、あなたの本当の向上ではありません。束縛と強制は永遠に人を変えることも向上させることもできません。束縛から離れると、人間はまた元に戻ります。これではいけません」(『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』)とおっしゃいました。

 私はこれまで、自分の「好意」を同修に押しつけ、相手が聞き入れてくれない時に自分が執着して止めないのは法理に背いています。同修の不足を見ていたら、善意をもって指摘すればよいのですが、指摘しなければ気が済まないとなったら執着になり、自分の認識を人に押し付けて、人に修煉を強いたげることはいけません。修煉とは、必ず修煉者本人がしっかりと内に向かって探して初めて向上します。私はいつも人の不足を気にし、自分の事は棚に上げ、修煉に良いことにはなりません。

 同修の事を指摘して相手が受け入れてくれない時もあります。私はさらに他の同修に詳しく説明して良し悪しを判断してもらいたがる傾向があります。さらに、これは法に従って共に向上することだと勘違いしていました。今は、自分が同修の執着に執着しているので、慈悲の心で同修の事を包容していなかったと分かりました。しかも、裏で同修の陰口を言うのはよくありません。同修にマイナスな要素を押しつけるしかありません。善意で理解してあげて、慈悲で包容してこそ「真、善、忍」にふさわしく、真に同修を助けることになるのです。

 とにかく内に向かって探して初めて修煉になります。表面の是非を議論しても意味がないのです。情を放下して、人間の次元の是非から脱け出して初めて慈悲心が現れます。以前、同修と対立した時に、これは自分が言われたくない心をなくさねばならないと悟ったが、真に裏返して自分を見ていなかったのです。結局長い間、向上していませんでした。自分の次元での悟りですので、不足部分はご指摘ください。

 2010年1月16日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2009/12/31/215378.html

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