大法のことをいいかげんにしてはならない 文/中国の大法弟子
(明慧日本)大法を修煉してから、人は何のために生きているのか、どのように生きれば良いのかが分かりました。以前の私は、生きるのに心身ともに疲れてしまいました。これからは気軽に生きればよいと思いました。こうして学法・煉功を行い、修煉者の一員となりました。それは1998年のことでした。
毎日煉功を続けるべきだと分かっていますが、やはり苦を感じました。学法と煉功を通じて私の身体は大きく変化しました。苦を嘗めて業を消滅することができ、身体も良くなることが分かり、それからずっと続けています。しかし、悩みがずっとつきまとっています。学法の時に心をこめることができず、修煉と常人の仕事の関係を上手く対処できないため、仕事の余暇に三つのこともしています。その上、外部のプレシャーを受けて生活が厳しいと感じるときもしばしばあり、たまに常人の生活を羨ましいと思います。これは自分の安逸心のためで、苦が嫌で楽をしたい心があると分かっています。いったん苦を嘗めて執着をなくそうとしたら、人間の受け入れ限度および自分より良くない同修を思い出して、自分を許し、ずっとこのような矛盾の悩み中にいます。
最近、私は仕事をやめたので、時間がたっぷりあります。三つのことを毎日していますが、夜になるとすぐ寝たくなり、朝も定時に起きることができなくなりました。これは完全に、安逸心の現れです。
ある日、同修と他人の陰口を言い、あの人が大法をいいかげんにしていて、真に修煉せず、さらに周りの人にも影響を与えていると話しました。これは人の陰口を言っていると悟り、止めました。それから家に帰って『時間との対話』を学習しました。以下、引用します。
神:彼らの中には彼ら自身が良いと思う大法(ダーファ)の一面を求めに来た人がいますが、かえって彼ら自身は、法のすべてを認識できなくしている他の一面を放下できずにいます。
師:そうした人は古くからの弟子にもいます。 しかも、最もよく見られることで、彼らはいつも人間と比べ、彼ら自身の過去と比べていますが、各次元での法の要求に基づいて自らを量ることができていないのです。
神:これらの問題はすでに非常に深刻になっていますが、彼らが相手のどうこうを見る時の目で、逆に自らを見ることができれば、と思います。
師:彼らをしっかりと目覚めさせなければならない時が来たので、彼らの環境を真に修煉できる環境に変えて、真の神になるようにしてあげなければならないのです。
私は人の事を言う前に反省してみると、自分こそいいかげんにしています。私はずっと学法・煉功をしていますが、それは大法の中に自分の追求する目標があり、幸福や快楽があるためです。本当に師父に要求された無私無我の境地と根本的な違いがあります。
まだ、毎回真相資料を配る時に、どうやって安全迅速に資料を配り切るかを考えて、階段を上る時も2段ずつ上がり、真冬でも薄着で汗をかいたりします。これは修煉ではなくて常人の鍛練と同じではないか思いました。完全にノルマを達成するようにしています(師父が真相を伝えて人を救うようにと教えられているため)。資料配りは衆生を救い済度するためであると皆が分かっています。私はいかにすべて邪悪の迫害を解体し、衆生が救われるのに妨害の旧勢力の按排を排除すべきであると考えています。疲れた時は、早くこの迫害が終われば楽になるだろうと思ったりします。いかに楽にして、楽に生活をしたいという執着心です。
正法が速く終わることが問題ではなく、私たちのレベルがまだまだ達していないのです。
今は、前のように困難に遭っても躊躇したり困ったりしません。そして、師父がおっしゃった「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」(『転法輪』)のように自分を励まして、自分を正し、苦を解消します。こうして初めて生命の幸福が得られます。
2010年1月16日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/29/215245.html)
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