■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/01/18/mh195382.html 



自分を真の修煉者として自覚してこそ、執着心を取り除くことができる

文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、自分の執着について新たな認識ができました。それを同修と交流したいと思います。

 私は、食べることが大好きでした。古人はそれを口腹の欲と呼んでいます。食べ物なら何でもおいしく食べ、食べながらも、次に食べる物を考えました。特に濃い味が好きで、食い意地が張っていました。時々、食べたいものや食べに行く日など、スケジュールを作ったことがありました。しかし、最近はそれが執着だと悟りました。修煉者として、それらの雑念を払い、食べ物に対する執着を取り除くべきだという認識ができました。神は食べ物に対して涎を垂らすことは絶対にありません。食物の役割は身体にエネルギーを補充して、各臓器の機能を正常に動かすことであり、それ以外の目的を追求するなら、執着になると悟りました。

 私は今日から食い意地の執着を徹底的に取り除こうと決心しました。まず、食べ物のことを考えないことにしました。もし頭の中が食べることで一杯だとすると、いつ、どこで何を食べるとか、考えれば考えるほど、その執着が次第に拡大されていくではありませんか。1日3回の食事を除き、あるいは特別な事情がない限り、食欲を満たすために食べ物を買わず、味にも執着せず、食べ物への執着を抑えようと考えました。

 私は色々なことに執着を持っており、その執着心に動かされやすく、主意識が強くない人間でした。自分が自分をコントロールできず、執着や人心に操られて動いていました。

 私は修煉する前に、自分が理性を持ってやり遂げたことはありませんでした。いつも最後までやり切れず、あるいは、他のことに動かされ妨害された結果、自分に対して落胆して自暴自棄になって諦めていました。このような状態は勉強や仕事にも影響しました。

 修煉してから、この性格は自分の修煉にも影響を与えました。たとえば、長期にわたって煉功することができず、煉功と学法の時間を決めても、その時間帯に何か考えが浮かんでくると、すぐそのことを行ったりしました。一言でいうと、いつも頭に突然出てきたものに支配されて動いていたのです。

  今日、私は自分の主意識がなぜ弱くなったのか、その原因をよく探してみようと考えました。

 修煉する前の私は、感性的なものは理性的ものよりよいと思っていました。私は感性で感じたことに従い、何かを思い付いたら、すぐ行動をするという性格に憧れていました。自分自身の感覚が至上のものになり、一つの頑固な観念を形成しました。振り返ってみると、その間に自分の主意識を次第に放棄していく習慣になってしまったのです。

 私は同修に「あなたは何の心配もしていませんね」とよく言われました。私は確かに、修煉のことをあまり深く考えずにしていたのです。なぜなら、常人の考えをたくさん持っており、毎日ぼんやりしていたからです。

 私の主意識が弱くなったもう一つの原因は、自分が修煉者だという意識が薄かったのです。常人は自分の執着に従い、その気分に乗って行動するのですが、修煉者から見れば、それは観念や業力、外来の生命に服従することになります。修煉者はそれではいけません。修煉者は理性を持って自分や生活に対処すべきです。理性を持つと、人心が抑えられ、主意識が強くなり、それも修煉の一つの過程です。人心に従う行動は、苦を嘗めたくない心があるからです。修煉者としては苦労をせず、円満成就できるわけがありません。苦を楽とみなすべきなのです。

 私の主意識が弱くなった主な原因は、自分を真の修煉者と見なしていないからだと気付きました。要するに、修煉の決意がはっきりしていないからです。常人の安逸心を求める心があったからだと思います。

 私は今後、修煉者として法に従って自分を律し、精進していきたいと思います。

 交流文章を書くのは初めてです。自分の精進を促すと共に、同修に少しでも参考になることを願っています。不適当なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします

 2010年1月18日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/1/8/215890.html

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