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常に自分を真の修煉者と考えるべき

(明慧日本)先日、職場では上司が定めた規則と制度を学ばせられることに多くの人が反感を持ち、不満の声も多くありました。私もこれは合理的ではないと思い、同僚に「これはやり過ぎだ」と上司の悪口を言いました。

 夜、私は同修の文章を見て、突然自分の行為が修煉者らしくなく、自分が大法弟子であることを忘れてしまい、常人の心に動かされていたことに気付きました。

 長い間、私は慈悲の心を修めることが出来ず、より良く衆生を救うことができないことに悩んでいましたが、恨む心、闘争心、嫉妬心、安逸を求める心などの常人の心が、自分が真相を伝えることや、世の人々が救われることを阻んでいたことが分かりました。そのため、私は面と向かって真相を伝える効果がずっと良くなく、同修の不足を見かけて指摘してあげても、相手にきちんと受け止めてもらえませんでした。これは全部心が慈悲でなく、善の心が足りないためでした。

 日ごろ同修と交流するとき、常人の中にいれば常人の心に動かされ、他人の悪口を言ったりします。修煉者はエネルギーがあるので、私達の言葉はとんでもない結果をもたらしてしまうかもしれません。自分のこのような表現は、根本的に学法が良くできておらず、自分を常に修煉者として考えていないからです。

 師父はおっしゃいました。「学習者としては、頭に詰め込まれたものがすべて大法であれば、この人はまさに、真の修煉者です。ですから、法を学ぶことについて、はっきりとした認識を持たなければならないのですが、本を多く読み、本を多く学ぶことは真に向上するための鍵なのです」。(『精進要旨』「法の中に溶け込む」)

 ここまで書いたら本当に恥ずかしくて、師父と同修に申し訳がたちません。こんなに長年修煉してきたのに、同修にまだ善を持って接していませでした。今後、私はもっと学法を重視し、法を良く学んで、時間を無駄にせず人を救いたいと思います。

 自分のわずかな悟りです。同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

  2010年2月3日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/1/24/216786.html

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