■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/02/08/mh100885.html 



トラブルが現れたら、内に向って探す(二)

文/中国の大法弟子

(明慧日本)2003年、結婚したばかりの嫁は、私が法輪功の修煉をしていることで不満が生じ、ある時、大声で私を罵ったのです。その時、私は修煉者として心性を守り通しました。これは簡単にできることではありません。多くの修煉を重ねてきて、やっと殴られてもやり返さず、罵られても言い返さず、恨まず、憎まないようにできるのです。息子はこの件で嫁と口喧嘩しました。

  それ以降、嫁はすべての恨みを全部私に押し付け、ほぼ6年間、私に声をかけることはありませんでした。すぐ機嫌が悪くなり、そのたびに私の顔すら見たくないほどでした。私は謝っても受け入れてもらえず、だんだんと私も嫁の顔も見たくないようになりました。

  しかし、私は修煉者であり、常人と同じように争うことはよくないと考え直しました。『転法輪』や各地での説法を読むと、自分が修煉者であるならば、内に向って探すべきだと身に沁みて分かるようになりました。「真・善・忍」を修めているので、耐え抜くべきです。嫁が私に声をかけたくなければ、私の方から先に声をかけよう、家事のことなら私が全部やり、嫁たちの服から布団のカバーまで洗い、料理する時は嫁の好物を作り、こうして6年間、嫁に家事をさせませんでした。これで、「彼女は満足すべきだろう」と思ったのですが、逆に恨みが大きくなってしまいました。

 「嫁はなぜこのように私を恨んでいるのだろう」と考えながら、内に向って探してみると、私もずっと心の中で嫁を恨んでいました。嫁と付き合いにくいことを恨み、自分が毎日奴隷のように働くことを恨んでいました。強い怨恨の心を見つけだし、情と私心もあるのが見えました。

   私自身の向上のために、嫁が嫌な気持ちで、ずっと生活してきたこの数年間、きっと辛かっただろうと考えました。師父は私が衆生を救い済度することを願っておられるではありませんか。師父が『転法輪』の中で「失と得」に関する関係をよく説かれたではありませんか。一挙四得ではありませんか。法理を悟ると、根深い怨恨の心がたちまち消えてしまいました。私は内心から嫁に感謝の気持ちが生じてきました。一粒の砂にはどれほどの三千大千世界があるのかの法理も分かるようになりました。心の容量が大きくなるにつれて、師父が私の身体にある良くない物質を取り除いてくださいました。容量が大きくなる美妙な感覚を言い表すことはできません。そして、執着を取り除いた時に得た喜びも体験しました。

  以後、慈悲心を持つようになり、嫁を自分の娘のように思い、心から大事にしました。嫁に如何なる態度を取られても、私は怒らず、憎まず、心は動ずることはありませんでした。勿論出来るのは、心を静めてよく法を学んだからです。ある時、法を学んでいると、大法の威力が私の身体の細胞の一つ一つにまで、ゆき渡っていく感覚を覚えました。

  知らず知らずの間に、嫁が変わってきました。私達の関係も修復され、ある時、嫁は私の姑に「私から見ると、お母さんはお祖母ちゃんの世話をとてもよくしてあげています。病気の時、よく看病してあげていましたからね。孫の面倒もよくみてくださいます。心の優しい人ですね」と話すようになりました。

 私は夫ともさまざまな難儀に遭いました。殴ることや罵ることは日常茶飯事で、多くの試練を乗り越えてきました。ある時、私が座禅していると、夫はバケツに水を汲んで来て、何回を連続して私の頭から浴びせ掛け、それでも、私は水を掛けられたまま、座禅を終えました。これより前の数カ月間、夫はどういう訳か、もっぱら私の良くない所ばかりを探し出し、それを見つけると、これもだめあれもだめと言い続け、時には明らかに白なのに、どうしても黒と言い張り、説明しようとすると、すぐ怒り出し、革のベルトや物で襲い掛かってきました。

  最初のころ、夫が言い掛かりをつけてくると、知らん振りをし、時には、ちょっと説明しようとすると、すぐ怒鳴られてしまいました。この状態が2カ月も続いたので、「これはまた私のどの執着心に向けてきたのだろう」と考えるようになりました。

 師父は『ロサンゼルス市法会での説法』の中で次のように説かれました。「修煉者として、皆さん考えてみてください。私は『転法輪』と初期の説法の中で、『殴られてもやり返さず、罵られても言い返さない』と話したことがあります。相手につらく当たられても、一笑に付します。ほかの人の間にトラブルがあったとき、第三者としてのあなたも、『私はどのように行なうべきなのか、もし 私はこのようなことに遭ったら、心性を守り、修煉者のように指摘と意見に対処することができるのか』と考えるべきです。修煉はほかでもなく、内に向け て探すことであり、自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきです。修めることは、ほかでもなく、常人の心を取り除くことです。いつも批判と指摘 を受け入れず、外に向けて人を批判し、相手の意見と指摘を批判しているのであれば、それは修煉なのでしょうか? あなたはどのように修煉していますか?」

 (続く)

 2010年2月8日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/2/7/217706.html

明慧ネット:jp.minghui.org