■日本明慧 http://jp.minghui.org/2010/02/19/mh213563.html 



私は衆生への救い済度を妨害する障害を見つけた

文/中国の大法弟子

(明慧日本)今日同修の書いた『根本的に人を救う』という修煉体験文章を読みました。同修はこの文章の中で、がんを患って食事ができず、危篤状態になっていたいとこに対して、慈悲をもって、法輪大法はすばらしいと念じさせたことについて書かれていました。この同修のいとこは、心の中から法輪大法はすばらしいと念じ、そしていとこの家族全員も一緒に法輪大法はすばらしいと唱えました。そして奇跡が起きました。いとこが危篤状態か回復されたのです。そのときから、いとこは常に真心より絶えず法輪大法はすばらしいと念じました。人が彼に水を飲ませると、これまでに飲めなかったにもかかわらず飲めるようになり、吐き出すことはもう見られませんでした。そして、新陳代謝が正常にできるようになり、夜には大便が通り、翌日にはヨーグルトを6袋飲み、3日目には玉子の蒸し料理を食べ、5日目には通常の食事も、トイレでの排便も正常になりました。

 この文章を読み、私は自分のおじを思いだしました。少し前、おじは食道がんになりました。私は彼に大法の病気治療における不思議な力を伝えましたが、彼は死んでも信じてくれませんでした。私は悔しく思いました。今日同修の体験文章を読み、この同修と比べて見たら、そのわけが突然分かるようになりました。同修には求める心がなく、慈悲をもって人を救おうとしましたが、私は始めから目的をもっていました。それは求める心で、人心であって、大法に符合しないものです。大法は求める心を持たないで、自ずと得る、無為の状態を要求しているのです。この不純な一念により、私のおじの身には奇跡は起きませんでした。

 しかも、私は今自分のもっているこの隠れた心はとてもよくないと感じました。例えば、他人に自分がきれいな字を書けるというところを見せたい場合、私は黒板に字を書いて他人に見せます。そして人に認めてもらいます。また、人を救うことも同じです。わざと心のなかに、私はあなたを救いたい、私は必ずその人を救いたい、人を救うことは私の責任だ、などなどの念を入れたりします。実際、ただよく行えば、目的は自ずと実現され、効果も更にとてもよくなります。逆に自分の目的を強めることは有為であり、自信がなく、人を救えるかどうかに疑問を持っていることになり、はっきりいえばそれは求める心であり、求めるとは執着心で、修煉するにはまさに執着心を取り除かなければなりません。そして、このような執着を持つと大法は強大な威力を現すことができません。人心で神の一面を隔離したからです。

 有為とはほかでもなく執着であり、執着があると、おのずと大法の無私の基準に到達することができません。私たちはかならず心を静めて考えるべきです。私は今後、三つのことを行うとき、或いはなんらかの仕事をしてもこの目的心を持てはいけません。なぜなら、成功させるのは大法であり、もし目的を持っていれば、それは人心であり、人心に物事を成功させる能力はなく、人心をもってないときこそ、大法の法力は私たちを通じて現れます。

 以上は現段階でのわずかな認識であり、大法に符合しないところについてご指摘お願いいたします。

 2010年2月19日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/2/14/218050.html

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