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私はもう指摘されることを恐れない


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は年配の内向的な性格の大法弟子です。田舎に住んでいた頃、近所付き合いはせず、たまに隣近所と世間話をすると、帰宅後、すぐに後悔し始め、自分が言ったことで人を傷つけてはいないかといつも心配していました。私は自己を守ろうとする意識の非常に強いタイプの人間でした。

  法輪功の修煉を始めて、法をよく勉強してきたつもりですが、同修と一緒に交流すると、表向きは他人を傷つけることを恐れ、相手の不足を指摘したくなく、しかし、実は私の心の奥深くに、他人から指摘されることを恐れる心が隠されていたのです。慈悲なる師父は私のこの心を取り除くため、法理において認識し向上させ、家族とのトラブルによりこの執着心を発見させてくださいました。

 同修である息子はよく里帰りするので、私はおいしい食べ物があれば、いつも息子に残しておいていたのですが、食事しながら交流すると、私にはこの面において人心があり、あの面においても人心があり、長年、修煉してきたのに、この程度しか出来ていないのかと息子にいつも指摘されていました。

 息子に指摘されて、私はとても恥ずかしく、顔が真っ赤になりました。自分が法の要求とかけ離れているためではなく、愛情を注いだ息子にこのように言われて、悲しくなりました。いつも息子を大切に思い、心を砕いてきたのに、息子に思いやりや感謝されるどころか、叱責するような口調で言われました。私は心が穏やかでなく、同修である娘に悲しみを訴えました。

 師父は『精進要旨』の「真修」の中でこのように説かれました。「実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷付いて苦悩を感じている時、すでに常人の執着心を放下できずにいるのです。 皆さん、必ず覚えておいてください! 修煉そのものが苦しいわけではありません。 肝心なことは常人の執着を放下できずにいることです。 あなたたちの名、利、情を放下しようとする時にこそ、苦しいと感じているのです」

 これを読んで、私は神への道を歩んでいるのですが、師父のおっしゃったことをしっかりと行っていなかったことが分かり、また、常人の観念を固守しながら、常人の理で修煉の過程で起きたことに対処し、生活の中で起きたトラブルを自分への不公平だと思い込んでいました。それは、師父と法を固く信じていないことであることも分かりました。

 心が静まると、私は自分の内心を少しずつ分析し始めました。自分には他人から指摘されたくない心があるのを発見しました。トラブルに出遭うと、自分の内に向って探すのではなく、絶えず外に向って探していたのです。

 続けて、私は『ロサンゼルス市法会での説法』(2006年2月25日)を手にして、一日中、読みました。法の中の一つ一つが自分のことを言っているかのように感じました。「マッチのように、こするとすぐに火がついてしまい、地雷のように、踏まれるとすぐに爆発してしまう人がいます。指摘されてはならず、言われると、承知しません。どんな意見も聞き入れられず、善意の、悪意の、意図的、または無意識的な指摘に対して、すべて受け入れられません。内に向けて探すことはなおさらしません。かなり深刻になっています。これは皆さんのせいではありません。今から、皆さんはこのことに気をつけるべきです。誰に言われても受け入れられるようにならなければなりません。心当たりがあれば改め、なければ気をつければよいのです。指摘と批判を前に、心が動じないようにすることができれば、あなたはすなわち、向上しています」

 私はやっとこの法理を悟りました。すると、心の奥深くに根ざしていた、木の根をすっかり抜き出したかのように、心が清らかで広々としてきたのです。これは慈悲で偉大な師父が、取り除いてくださったことだと分かっています。

  私にはまだ多くの執着心が残っており、師父のご加護の下で、同修の助けにより、何事も法に基づいて行い、着実に修煉していきます。自分をよく修め、衆生を救い済度することを第一に考え、着実に行い、師父の慈悲なる済度に報いたいと思います。

  2010年2月22日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/22/218619.html

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