法をもって師とすれば、最後の修煉の道をしっかり歩むことができる
文/中国の大法弟子
(明慧日本)私の地区のある協調人は、日々大法の仕事で忙しくしています。毎日夜中に起きて煉功し学法するので、苦労しています。この協調人は、私達の地方にいなくてはならない存在です。
しかし最近、この協調人が自分の修煉に非常に助けとなった「悟性の高い」と思われる同修Aさんがいました。しかも、このAさんは地域の同修に大きな影響を与えました。同修達の憧れとなり、天目を開いたAさんにもっと早く会えばよかったと思った同修も多かったそうです。
それで、協調人は他の協調人と相談し、同修達を集めて、Aさんの法についての解釈を聞くことにしたのです。一日一回のペースで法を解釈する段取りで、果物やパンなどの軽食も用意されました。同修Aさんはお茶を飲みながら、自分が法を学ぶとき、悟った高次元の法理を述べ始め、終わると、他の同修の疑問に7、8時間をかけて答え、聞く側の同修達も絶えず称賛を送りました。毎回20人ほど集まりました。噂を聞いた同修達が皆来たがり、それで、いまだにこの集まりが続いているのです。
私は一回だけ参加したことがあります。聞くと、確かに感心する部分もあるのですが、一方、どこかに乏しい感じもしました。ある日、発正念のとき、「外に向かって探している」という一念が私の脳に走りました。よく考えてみると、確かに外に向かって探していました。法を学んだではなく、人を学んでいるため、このようなことになったわけです。数日後、協調人にこのような「切磋」を私の家で行いたいと相談を持ちかけられたのです。その場で私は同意しましたが、同修である家族と相談すると、これはよくないと断られました。
よく考えると、法を乱している行為だと気付きました。師父が「法をもって師となす」ようにと再三強調されました。大法の師父は1人しかおられず、法も一部に限られているはずです。そして、修煉において他人の悟りを聞けば、自分の悟性も向上できるというわけではなく、たとえ悟ったとしても着実に実行に移さないと修煉したと言えません。悟性を高めるには、着実に法を学ぶことです。他人の宣伝と解釈によって得られるものではありません。それに毎日、長時間を使って他人の盛り上がった議論を聞き、人を救い済度する多くの貴重な時間を無駄にしてしまったではありませんか。
私の周りに多くの年配の同修がおり、それほど知識を持っておらず、悟ったものも高くないかもしれないが、しかし、毎日着実に三つのことをしっかりと行っており、黙々とやり続けています。これこそ、修煉そのものではありませんか。その修煉の過程で、法を学ぶときに修煉者として知るべき法理を師父が分からせてくださるでしょう。
2010年2月24日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/2/19/218443.html)
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