日本明慧
■印刷版   

内に向けて探すという法理は、修煉者にとって真の宝である


文/中国山東省の大法弟子

(明慧日本)母と妻の矛盾は和解されることなく続いています。母と妻の間にいる私は、両方から愚痴を聞かされるのです。

 私は家庭の問題に面して、いつも常人の理で対処してきました。同修であるが精進していない妻の、母に対する愚痴を聞くとき、賛同する部分は多いのです。

 しかし、母(同修)の前で自分は子供なので、親を尊敬しなければと思い、厳しいことを言えないのです。師父はこのようにおっしゃいました。

 「修煉とは厳粛なるもので、差はますます大きくなるわけですが、修煉の中にどのようなものであれ、人間のものを加えることは、極めて危険なことなのです」

 私はこれらの問題を大法の法理に基づいて処理しなかったため、結果として母と妻の矛盾の、解決時間を引き延ばし、問題を大きくしてしまったのです。私はこのことで苦悩し、同修に相談しました

 同修は妻に問題があるといわれましたが、私は母を怨みました。妻は修煉を精進していないため心性が低く、毎日乱れていて、私が落ち着く日がなかったのです。

 母と妻の問題はどこからきたのかよく分かりませんでした。

 師父が2009年に連続して経文を発表されました。師父が(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)の中でおっしゃいましたように「もっぱら精進していない人、人心の多い修煉者らしくない人と一緒に行動し、負の作用を働く人、スパイと接触する人、理性がなくいつも学習者をかく乱しようとする人、私は本当に彼らの将来を心配しています」

 「修煉者にとって内に向けて探すのは有効な方法です。」これらの法を学んだとき、私は驚きました。「もしかすると母と妻の矛盾は、私の執着心によるものだったのか?」私は無条件に内に向けて探しました。妻からは母が次男だけ重視しているといわれ、私は、それは弟の持っている徳や業力によるものと思い、私にもそのような心があるのではないかを探してみました。

 私には名利に対しては尊ぶ心があり、自分より名利が上の人に対しては尊敬し、そうではない人に対しては見下していました。これは執着心ではありませんか? 私は発正念して取り除きました。

 妻は強い嫉妬心を持っています。私は妻を、自分を映す鏡として照らして探したら、自分にも嫉妬心がありました。たとえば大法の仕事になると、表向きでは賛成しているようですが、内心では強調したくなく、自分は他人より偉いと思い、他人の話は聞きたくなかったのです。

 これは嫉妬心ではありませんか? 妻が愚痴をこぼしたことを利用して自分を探してみると、ほとんど私の執着心の根本を言い得ていました。時には脳裏に母親を怨む念が現れると、このよくない念を抑制し取り除いていました。

 邪悪は私のよくない念を利用して、同修間の間隔を作ろうとしても、絶対に許せないのです。

 私は大法の要求に基づいて自分を修煉していたことで、すべてができたとは思いませんが、しかし喜ばしい変化が起きたのです。

 母が突然、人を寛容し理解するようになったのです。母の変わりようを見た妻は優しくなり、お互いの恨みが消え去り、よい方向へ向かい始めたのです。私は心の中で大法の奇跡に感嘆していました。

 以前の私はいつも外に向けて探していました。母のここがいけない、そこがいけないとか、妻のここが間違っている、そこが間違っているとか、とにかく責任は二人にある、いつも常人の面に現れる問題の是非を判断していました。

 自分の執着心を取り除くためにおきた矛盾とは考えていなかったのです。これは師父が私の修煉を高めるため(もちろん母親や妻を高めるためでもある)設定してくださいましたのです。

 自分が内に向けて探したことによって、環境が変わりました。自分も師父がつけてくださいました天に登る梯子を一段登ったような気がします。目の前に現れた問題は自分を高めるためではないでしょうか?

 ニコニコして内に向けて探すべきで、どうして苦痛を感じるでしょうか?

 次元が限られており、同修の慈悲なるご指摘を望みます。

 2010年2月28日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/2/11/217943.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2010/2/25/114932.html

■関連文章
常に自分を真の修煉者と考えるべき
人心を捨て去り、楽しい修煉者になる(一)
嫉妬心を無くし、同修の長所を学ぶ
法を正す時期の修煉で、偉大なる師父に感謝する(五)
新しい修煉者にも神通力がある
根本的な執着を取り除く
心性が向上すれば 身体も変化する
近距離で発正念した体験
正念が強ければ 邪悪を解体することができる
精進していない同修に一言