新年に帰省し、心性の関を越えて向上する
(明慧日本)私は今年の旧正月、実家へ戻りました。実家には80代の祖母と、50代の父親と母親、30代の私も含めて4人の平均年齢は50歳以上になり、毎日一緒にいると、それなりの心性の摩擦が生じてきます。 父は共産党文化の洗脳を受け、「三退」を拒んでおり、50代になってもまだ世間の生活に未練があります。父は定年退職をしたあと毎日遊んでばかりいます。母は早いうちに「三退」し、祖母は共産党組織に加入しなかったので、祖母にとって「三退」はあまり重要ではないようです。私は祖母に「法輪大法は素晴らしい」と念じるように教えました。
私は修煉がよくできておらず、その上、最近意気消沈しており、そのため真相を伝える際に力不足を感じています。私は地元でちょっとした有名人でしたので、地元の人は私に対して少しばかり誤解があるようです。30歳にもなるのに独身でいることを理解してもらえず、私は実家に戻るたびに見合いを勧められるのです。
それでは見合いについて私の考え方はどうなのか、私たちには正法時期の大法弟子としての使命があります。したがって、出発点は大法を第一に考えなければならず、個人のことを第一に考えてはなりません。しかも紹介される女性は常人ですので、私は断りました。しかし、これが多くの親戚たちには不満のようでした。それでも私は善をもって親戚たちに真相を伝えました。
自分の婚姻問題について、時には心が動じることがあります。友人たちを見ると、すでに子供がいて楽しそうに暮らしており、我が家は新年を祝っても静かで寂しい上に、祖母はしきたりに厳しく、人から後継ぎがいないと言われるのをいつも気にしていたようです。私も時には家庭を持ちたいという考えがまだありました。その時、同修と交流したところ、家庭を持ちたいということは「色欲の心」が完全に取り除かれていない現われだと言われました。私は学法を通して分かったのですが、色欲の心ではなく、情の要素による働きだと分かりました。私の主要な目的は世間の人に理解してもらうことです。
婚姻問題について、結婚するかしないかが問題ではなく、私の悟りでは、それは基点の違いであり、なぜ結婚するのか、なぜ結婚しないのか、どちらにしても、法を第一に考えなければなりません。特に現代社会は、若い男女が結婚もしていないのに同居しています。私が思うには、大法弟子は「世の墜落を截窒(ふさぎとめ)る」(『洪吟二』「普く照らす」)義務があり、大法弟子としてこれらを正に帰し、婚前の男女関係はあってはならず、同棲もしてはなりません。さらにもう一つは、今の人は多くの観点が変異しており、結婚したのに好き勝手に服を着替えるように、いとも簡単に離婚してしまうのです。大法弟子として常人と同じような行動をしてはなりません。
今回、実家に戻りもう一つ感じたことは、周りにいた多くの年配者がこの世を去っていたことです。考えてみれば人生の道のりはとても短いものです。数十年の月日は、瞬く間に過ぎ去ります。楽しい家庭を持ったとしても、子孫がたくさんいるからといって、やはり生老病死から逃れることはできません。これらの理から見れば、家庭を持つことが大事なのではなく、大事なのは自分の修煉をよく行い、同時に世人の宿命である生老病死から、世人を救い済度することです。このことこそが第一なのです。
これらの理が分かった時、心が軽やかになり、時の流れに身を任せるような万感の思いで、まさに「万事執着無ければ、脚下に路自ずから通ず」(『洪吟二』「阻む無し」)なのです。執着が現れた時は、この法理を念じるようにしています。念じているうちに、真にそうなるのです。
2010年2月28日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/2/20/218491.html)
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