修煉者が衝動的に「やめる」と言っていいのか
(明慧日本)一昨日インタネットが通じなくなって、昨日専門の人に修理を頼みましたが、来てくれませんでした。いらいらして恨みの感覚を感じていました。それに真相を伝える事もなかなか進みませんでした。この難関を乗り越えられないため、師父は私を助けてくださっていないのかもしれないと疑問に思ってしまいました。「どうして他の同修には師父がいつも暗示して下さるのに、私には何も無いのか」と思ったとき、母親が部屋に入って来て、真相を伝えることがあまり順調ではないと言いました。私はすぐ気が抜けたようになって、つい懐疑的な口調で「やめようか?」と言ってしまいました。それを言いながら、母も私と同じような話をして欲しかったのですが、母は何も言いませんでした。私は机にもたれて怒りで頭がいっぱいでした。
午後になって、ふとインタネットの問題をめぐって、自分の恨みと闘争心のほか、利益の心も重かったと気がつきました。私は正念でなく、自分の利益が損なわれると心配しました。「料金を支払っているのに、インタネットは通じないし、サービスが悪い。消費者の利益はいつも侵害されている」 このような執着心と人間的な観念で、問題が本当に解決できるでしょうか? 「私は大法の修煉者だ。誰も修煉者を動かす事できない」 私がそう思ったとたん、心の中から自分が修煉者であることを意識して、気持ちもだいぶ落ち着きました。
その夜法を学ぶとき、突然昼間言った「やめようか」という言葉を思い出して、驚きました。どうしてそんな言葉が出てきたのでしょうか? これは師父の心を痛ませ、邪悪を喜ばせる言葉ではないでしょうか? 本気ではありませんでしたが、修煉者として軽がるしく口に出してよいものでしょうか? よく考えると、獄中で迫害されている同修たちは、どんな残酷な迫害や苦難に対しても、歯を食いしばって、絶対に言わない言葉です。彼らと比べて、私はこんないい環境の中で、かっとなって、それを安易に口に出して、大法の大切さを忘れてしまい、本当にいけませんでした。
当時自分の気持ちの中で、修煉をやめると言えば、師父が私を助けてくださるという考えがありました。「誰のために修煉しているのでしょうか? 自分が法を得てから本当に法を知るまで、とても苦しく辛い道を歩んで来ましたが、どうしてまだこんなにだめなのでしょうか? 執着心が重過ぎるのではないでしょうか?」こう思うと恥ずかしくて、悔しくてたまりませんでした。もし師父が本当に自分をかまってくださらないとしたらと思い、深い絶望感を感じました。
師父の『欧州法会へ』の経文にこの問題が書かれており、読んだこともありますが、心の深い所までいきませんでした。今回のことを通じて、これは無視してはいけないと感じました。気を抜いたり、やめようと言ったりするのは修煉者ではありません。大法を重んじる態度がなければ、邪悪が勝手気ままにしてしまいます。そのためこの文章を書いて、自分がこの問題で厳正声明として発表します。そして同じような問題がある同修たちは勇気を持って,一時的な難関があっても、気をぬかず、師父の心を痛ませる言動をしない修煉者になって欲しいのです。きっと師父は私たちの精進を見守ってくださいます。
2010年3月2日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/2/4/217464.html)
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