人心を捨て去り、楽しい修煉者になる(三)
(明慧日本)自分の思想に留置場の存在を認めていることに気付かなかった時はずっと、心にしこりがあり常に眉を寄せていました。
師父の「常人の心を放下して法を得れば即ち是れ神」(『洪吟』「衆生を広く済度す」)を何回も暗記し思い出しましたが、気分は良くなく、常に落ち込んだ状態でした。
監禁されて22日目に突然、自分がこの一切を認め、気にしているのが分かりました。この一切が自分を制御していて、家族や同修と離れていること、自由が奪われたことを苦しんでいました。
要するにこの環境の中の壁、鉄門、手錠、警察すべてに自分の心が影響され動かされていました。これは人心に対するうわべの現象でしたが、自分はこの一切を認め、非常に気にしていました。
その夜、私はこの一切を認識して、心の底から喜ぶようになりました。翌朝、私は留置場から出ました。あそこは人を監禁する場所で、神を監禁する事はできません。私は身を持って師父の法理を体験しました。
「身は牢屋に臥すれど傷み哀しむ別れ、正念正行して法在り、静かに思う幾多の執着の事を、人心を片付けば悪は自ずから敗る」(『洪吟二』「別れ哀しむ」)
今回の出来ごとを顧みると、自分がもし、早めに闘争心、仕事をする心を認識して捨てていたら、違う結果がもたらされたはずです。
自分は捕まるとき、面子のため周りの人々に「法輪大法は良い」と叫べくことができず、善の心を持って真相を伝えていませんでした。
人心があるから苦しいと感じるわけです。周りの多くの同修は苦しんで修め、修煉者があるべき苦しみを喜んで受け入れることが出来ないことを見ました。
身体がどこにあっても、どんなトラブルに出会っても、自分の心を修め、人心を捨て去り、観念を変えれば楽しい修煉者になるのだと自分は悟りました。
数年来多くの魔難、妨害を通しても依然として大法のなかで修めています。本当に幸いに感じ、師父の慈悲、法の力量を感じ取りました。どの様な言葉でも師父の恩を表すことはできません。
ただ実際の行動で三つのことを良く行うことこそ、師父の慈悲なる済度に申し分けが立つことです。
2010年3月7日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2010/2/21/218558.html)
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