日本明慧
■印刷版   

学法の心情と形式について


文/中国の大法弟子

(明慧日本)大法弟子にとって学法は、心性の向上や新しい宇宙との同化、妨害を取り除くなど、最も重要な修煉の一環となっています。

 大法の修煉は、決まった形がありません。師父の説法の中には、学法の心情と形式についての要求はありません。ですから、法を学ぶときの心情と形式について私は、全然気にしていませんでした。

 しかし、最近私は、一つの問題を見つけました。

 修煉の形が決まっていなくても、悪い形式と心情での学法は、けっして大法の修煉をよく行ったとは言えません。私自身は、学法を行う心情と形式がよくないときに、「大法に対して敬わないことだけではなく、学法の効果もありませんでした」と感じたのです。

 ですから、ここで私たち大法弟子がいっそうよく学法ができるよう、衆生を救い済度することをよく行うよう、よくない学法の形式と心情とは何かについて検討したいと思います。

 私自身の学法のことについて話します。師父は特に学法のときの姿勢について要求していません。それで私は、特に疲れたとき、いつもベッドで横になって学法していました。結果、徐々に眠くなってきて、夜中まで寝てしまいました。

 時に、気持ちよいソファに座り、足は前のテーブルに置いて学法をしました。結果、法の内容が全然頭に入りませんでした。

 それらの結果もそのはずで、「私は宇宙の法を勉強しているから、とても神聖なことを行っています。そんなよくない姿勢はどうでしょう。

 もし、重病を患っている人が、ベッドで学法するなら、問題にはなりませんが、私のように健康な人がなぜうやうやしい姿勢で法を学べないのですか?

 洪大な法には、私たちがどうしてこのように敬わないのですか?」と私はこのように明確な認識ができた後、どんなに疲れても、どんな妨害があっても、法を敬う心を持ってうやうやしい姿勢で法を学び、とてもよい効果が現れました。

 私たちは師父に「学法するときに求める心を持ってはいけません」と教えていただきましたが、私たちは分かっていながらもやってしまうことが多いのです。

 例えば、体調がよくないとき、健康を取り戻したいと考えて学法を行うことが度々あるでしょう。これらは求める心を持って学法をしていると思います。この心情で学法を行うのはよくないのです。大法は世の中をすべて創ったものなので、求める心を持たず、無条件で同化するしかありません。ですから、穏やかな気持ちで静かに行うべきです。

 私は学法を行うとき、たまに任務を完了する気持ちがありました。これもよくない心情です。学法は常人の任務と違って、生命の「返本帰真」の過程であり、純粋な心情をもつべきです。時々、学法を始めようとするとき突然、今日のニュースを見たい、新聞を読みたい、誰かさんと電話をしたいなどの念が出てくることがあります。

 これらは、特別な事情以外、学法を妨害するものだと私は認識しています。師父は「法を学ぶときには、如何なる考えも放下し、他に何も考えずにただ法を学ぶべきです」(『各地での説法二』・米国フロリダ州法会での説法)とおっしゃいました。

 ですから、私たちが法を学ぶとき、いろいろな雑念を抑えなければなりません。もし、口では読んでいても、頭がどこかへ行ってしまったら、その元のところに戻ってもう一回読まないといけません。

 というのは、法が連続して関連しているから、例えば、一講の中の20パーセントが頭に入らなければ、学法の連続になりません。気が散っている状態だと、法を連続して学んでいることではなく、選んで学んでいることになるでしょう。

 以上、私の学法体得ですが、自分の悟性が悪いため、たくさんの過ちを起こし、法を学ぶ効果に影響を及ぼし、修煉の道を遠回りしてしまいました。

 同修が私と同じような過ちを起こさないように願っています。純粋な心でうやうやしい形式で、法を学び、法を同化しましょう。

 2010年3月8日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/2/25/218742.html

■関連文章